チェンライの市場から

「市場に並べられた商品からその国の生活がわかる」と言われます。当ブログを通じてチェンライに暮らす人々の生活を知って頂きたいと思います。 チェンライに来たのは2009年から、介護ロングステイは2018年8月母の死去で終わりとなり、一人で新しい生活を始めました。

タイのコーヒー 2

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タイのコーヒー その2


基本的に自分はコーヒー党ではない。スタバや喫茶店は人と待ち合わせるために入るのであって、コーヒーを飲むためではなかった。それに高い。銀座のF月堂で小さなケーキと一緒にコーヒーを飲んだら、消費税、サービス料込みで1000円を越えた。ウズベク生活の2年で貧乏性がすっかり身に染みついた直後だったから、あの時の驚きは強烈だった。目の前が真っ暗になったといっても過言ではない。味についても、1804(文化1)年に大田蜀山人が書き残したコーヒーの感想、「紅毛船にて"カウヒイ"というものを勧む、豆を黒く炒りて粉にし、白糖を和したるものなり、焦げくさくて味ふるに堪えず」(瓊浦又綴)と余り変わりない。コーヒーが好きではないのだ。

ところがチェンライに来てコーヒー大好き人間に変身した。それはチェンライ郊外、スアンドーク村近くにある珈琲店「花園(はなぞの)」のお陰である。スアンドークは花園の意味だ。因みに「花」はドークマイと言う。1970年代半ばに愛読した「嗚呼!! 花の応援団」という荒唐無稽なお下劣ギャグマンガがあった。作者は「どおくまん」。タイ語の「花」と「花の応援団」の「花」が係っている。恐らく作者はタイに詳しい人ではないか、と今となって思い当たる。それがどうした、と言われるかもしれないが、タイに来たからわかる、ということはあるものだ。

「珈琲花園」を取り仕切るのはMさんという40過ぎのすらりとした明るい日本女性だ。珈琲店と言っても展示会のブースのような小さなスタンド、4,5人座れば一杯になる。スタンドはよく見ると趣のあるチーク板で作られている。ご主人のサンパンさんの手作り小屋だ。地方紙の文化記者として活躍していたMさんはひょんなことから日本に研修に来ていたサンパンさんと出会い、夫婦になった。10何年か前のことである。研修を終えて帰国したサンパンさんはバンコク近郊にある日系企業の工場幹部として働き始めた。一流大学を出ているし、順調に出世してもらって、とタイの上流の暮らしを期待していたMさんだったが、ある日、サンパンさんの「ボク、会社辞める」の一言で、彼の出身地であるチェンライに移り住むことになる。

新しい仕事は短大の教師、一挙に給料が5分の1以下になった。月3千Bで生活をやりくりしていた。ある日ご主人が「ボク、学校辞める」。働きたくないから、という至極もっともな理由からだ。田舎だからお米はある。鶏、ヤギを飼って卵とヤギ乳を確保、家の前を耕して野菜を作り、池の魚を釣って食べる、というほとんど金銭経済と縁のない生活をしばらく送った。お金を使わない生活は、それはそれで楽しいものでした、という。Mさんはもともと明るく、楽天的な性格なのだろう。それでも現金収入が全くないのは不安だ。亭主が働き始める様子はない。タイでは男の一人くらい養えなければ女ではないと言われる。(いい国だ・・・・)

Mさんは高校生の時、喫茶店でアルバイトした経験を思い出した。私の淹れたコーヒーをお客さんが美味しい、と言ってくれた、そうだ、珈琲店を開こう。たまたまごチェンライのドイ・ラーンでコーヒーの栽培が始まっていた。丁度、政府が少数山岳民族支援策として、コーヒーの苗木を1本3バーツ(8円)で配布していた。これはいいとご主人と相談してドイ・ラーンに土地を借り、1万本ものアラビカ種コーヒーの苗木を植えた。

農薬も使わず、肥料もやらずの自然栽培であったため、どんどん木は枯れていき、残ったのは3千本くらい、という。それでも3千本だ。コーヒーは植えてから5年目からしっかりした実が取れる。1本の木から取れるコーヒーは焙煎済みの重量にして500グラム程度。自然農法のMさんの山のコーヒーはもちろんこれよりもずっと少ない。コーヒーの生の実はコーヒーチェリーと呼ばれる。ユスラ梅ほどの赤い実だ。食べるとほのかに甘い。取り入れは11月から1月にかけて。この頃、珈琲花園に行くとコーヒーの付け出しにコーヒーチェリーを出してくれる。種の周りにある甘い果肉を食べる。あ、種は捨てないで、この中に入れて。これを干して焙煎すれば美味しいコーヒーになりますから、とMさんが言う。
(続く)


(画像上)殻を半分取った豆

(中)左から甘皮付き、、甘皮なし、焙煎済豆

(下)上から生豆、殻付き豆、焙煎済豆