チェンライの市場から

「市場に並べられた商品からその国の生活がわかる」と言われます。当ブログを通じてチェンライに暮らす人々の生活を知って頂きたいと思います。 チェンライに来たのは2009年から、介護ロングステイは2018年8月母の死去で終わりとなり、一人で新しい生活を始めました。

パイ川に架かる橋

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パイ川に架かる橋

ブログ、「タイ友好記念館・最終章」、「旅は道連れ」に添付した鉄橋の写真を見た友人から、あの橋は何という名前で、何という川にかかっているのかとの質問を受けた。橋の名前はターパイ橋、パイ川に架かっている。国道1095線をパイの街からチェンマイ方向に、2,3キロ行ったところにある。橋の入り口には大きな石が置かれていて車は入れない。鉄橋に寄り添うようにコンクリート製の橋が架けられており、今はこの新しい橋が一般に使用されている。

英語の看板があり「第2次世界大戦記念橋、1942年」と書いてあるので、てっきり日本軍が架けたと思う人も多いようだ。しかし、よく見ると「B.C.1942年」と書いてあり、すこぶる怪しい。橋のたもとにあずまやがあり、そこに橋の説明版がある。
チェンマイとメーホーソンを結ぶ1095線は、もともと日本軍が軍用道路として建設したものである。パイ川にはそのとき日本軍が架けた木製の橋があったが、1946年に破壊された。(戦後のことであり、連合軍の命令によるものだろう)住民は新しく木製の橋を架けて使用していたが1973年の洪水で流されてしまった。そこで、1976年にチェンマイからこの鉄橋を移設した、とある。その後、耐加重、強度の問題から使用されなくなり、代わりに何の変哲もないコンクリート橋が架けられて現在に至っている。だから鉄橋は日本軍とは何の関係もない。強いて言えば、鉄橋の場所に日本軍が架けた木の橋があった、ということくらいか。

英語の説明版には、橋や道路建設のために住民多数が強制労働を強いられた、と書いてある。労賃が払われ、辞めたければいつでも辞められたし、当時は産業のないこの地が建設景気に沸いたことを思えば、強制労働ではなく建設協力といった方が正しい。多分、英国人か豪州人かが書いたのだろう。英文説明には白人優越主義を踏みにじられた彼らの屈折した心理が投影されているように思う。

泰緬鉄道建設に当たっても600以上の橋が架けられた。多くは木製である。「戦場にかける橋」で有名なカンチャナブリのクウェー川に架かる橋も鉄橋とともに木製の橋があった。小説「戦場にかける橋」や捕虜の手記には、日本は鉄橋建設を自力で行なえず、連合軍捕虜の技術協力が必要だった、木橋が多いのは日本の未熟な技術力を示す、などと書いてあるが、これは事実ではない。木製の橋が多かったのは、木製の橋は爆撃により破壊されても短時間で修復できたからだ。事実、クウェー川でも度々橋が爆撃されたから、日本軍は橋の建設材料をキット化して、爆撃を受けても1日で修復し、列車の通過に支障なきようにしていたという。


「戦場にかける橋」の原作者はピエール・ブールというフランス人だ。彼はマラヤでゴム園の監督をしていた。大東亜戦争勃発後、自由フランス軍に投じ、仏領インドシナレジスタンス活動をしていたがヴィシー政権軍に捕らえられ、日本軍の捕虜としてタイの捕虜収容所で2年過ごした。見下していた有色人種に捕虜にされ、虐待を受けたことを彼は屈辱に思い、その体験を下に「猿の惑星」という小説を書いた。これが映画化され、日本でもヒットした。

映画では檻から逃げ出したチャールトン・へストンが、逃げ場を失い、網に絡み取られ、みじめに吊り上げられる。彼にサルたちが石をぶつける。負け惜しみからか、高慢からか、主人公は「死ね、サルどもめ!」と叫ぶ。これは、戦争捕虜だったピエール・ブールが、日本兵に向けて実際、使った言葉だといわれている。泰緬鉄道建設に従事した人の手記を読むと、連合軍捕虜、現地労働者、日本兵との関係はそれ程悪くなかったようだ。捕虜たちは「どうせこの線路を使ってオレ達は帰国するんだ」、と元気に働いていたという。現地労働者には、こんなにはずんで貰っていいのか、というほどの労賃が支払われていた。

私事になるが、当時国鉄に勤務していた叔父は軍属として泰緬鉄道建設に従事した。
叔父は泰緬鉄道の思い出を語ることがあった。「ポー、ポーと汽笛を鳴らしながら機関車が完成仕立ての木橋をゆっくりと進んでくる。ギシギシと橋が音を立てる。それを建設に従事した日本兵、捕虜、現地労働者が固唾を呑んで見守る。機関車が橋を無事渡りきると、皆大きな歓声を上げ、誰彼となく抱き合って喜んだ」・・・・

自分がカンチャナブリの戦争博物館やターパイ橋にある英文説明のベースとなっている「日本兵残虐史観」に違和感を覚えるのは叔父の話を聞いていたからだ。叔父がタイ、ビルマのどこで働いていたのか判らない。叔父は昨年87歳でぽっくり亡くなった。生きているうちにもっと話を聞いておけばよかったと思っている。