館内を我々3人はゆっくりと回った。外の雨音だけが聞こえる。我々がいる間にもう一組、白人数名の入館者があった。彼らと一緒に、ビデオを見る。英国軍の捕虜となり、クンユアムの空港の滑走路作りに使役されていたフクダという日本兵がいた。ビデオは彼と結婚したキアオというカレン族のお婆さんの話だ。彼女は今もクンユアムに住む。
彼女は父親と弟の3人で市場にバナナやお菓子を売りに行く仕事をしていた。市場で知り合ったフクダを父親が気に入り、彼は家に遊びに来るようになった。滑走路が完成した後、フクダは脱走してキアオと暮していくことを決心した。フクダは工兵だったこともあり、機械整備や金属加工の技術で村人の生活を助けた。技術や丁寧さ、誠実さ、世界中どこに行っても評価される日本人の特性が村人に認められていた。フクダは村に溶け込んだ。二人の間には二人の男の子が生まれ、幸せな生活を送っていた。
しかし、その生活はわずか4年で終わりを告げる。突然、彼は警察に連行され、縛られたまま象に乗せられチェンマイに護送される。数ヵ月後、キアオはフクダがバンコクの病院で死んだことを知らされる。
男女関係に厳格なカレン族では再婚は認められていない。キアオは女手一つで両親の面倒をみて、フクダが残した二人の子を育てた。日本人の子として恥ずかしくないように。
「日本人と結婚して一度も後悔したことはないよ。タイ人と結婚するより何倍も幸せな思いをさせてもらったし、二人の子供を育てることもできた。貧しかったから、学校に行かせることができなかったけど、二人ともまじめで、みんなが感心しているよ。ねえ、日本人の血が流れている子供だろう」
画面はいつか天国でフクダに会えることを楽しみにしていると、彼女が遠くを眺める場面で終っている。思わず目頭が熱くなる。しかし、ビデオを見終わった白人女性は曖昧な笑いを浮かべただけで、さして感動した様子もなかった。
チューチャイ氏の言葉が博物館に掲げられている。
「この博物館で当時の日本人の考え方や思い出が理解できます。ぜひ、時代の若い人たちに戦争の意味を考えてほしい。悲惨であるとか、何が正しく、何が正しくなかったかということを、本当のことを知ってもらいたい」
しかし「何が正しく、何が正しくなかったかということ、本当のこと」とはどうなのだろうか。ここ1月ほどインパール作戦の意味や大東亜戦争がアジア各国に与えた影響などについて考えてみた。歴史的な出来事は見る人の立場や見る角度によって全く違ったものになる。自分の考えも人によっては偏った見方、ということになるのかもしれない。
ところでインパール作戦に参加された窪田孝之助という方の経験談を娘さんがまとめられたものがある。以下は昭和44年、氏がビルマへ慰霊の旅に出かけたときのエピソードである。
『ラングーン空港よりバンコク行きの便を待つ待合室でのこと。私の隣に座っていたビルマの中年男性が、「もう日本へお帰りですか。」と流暢な日本語で話し掛けてきた。彼の言うには、子どもの頃、村にたくさんの日本兵が駐留しており日本語を教えてもらったとのこと。日本の歌も唄えます、と「見よ、東海の空明けて・・・」を唄ったりもした。
私は、この度巡拝旅行に来た故を語り、「戦争当時、ビルマの国や国民の皆さんに大変迷惑をかけて済まなかった」と謝罪した。すると、彼は顔をこわばらせてこう言ったのだ。「マスター、なぜそんなことを言うのですか。日本の兵隊さんが私たちを支配していたイギリス人と戦ってくれたから、ビルマ人は民族魂が燃え上がり、ついに念願の独立を勝ち取ることができたのです。日本は私たちの大恩人です。どうかまた来る時はもっと胸を張って来てください。ビルマ人は日本の方を大歓迎します」私は安堵した。あの戦争は負けたが、戦争の副産物も大きく残ったという誇りを持つことができた』彼の経験は決して東南アジアでは珍しいものではない。自分の大東亜戦争に対する評価と共通するものがある。
しかし、クンユアムの記念館は大東亜戦争を美化したり、積極的に評価したりするものではない。ただ、敗走してきた日本兵を、貧しいながらも精一杯助けてくれたタイ人たちがいた、その友情を両国民が築き上げていた、という事実をひっそりと示しているだけだ。記念館を訪れる人は年間5千人ほど、そのうち、日本人の割合は5%くらいでしょう、とチューチャイ氏は言う。
タイに在住する日本人はもちろん、若い日本の人に、歴史の真実とは何か、日本人と何かを考え、日本人としての誇りを取り戻すために、ぜひ訪れて欲しい場所ではある。
(あと1回くらい…)
写真はチェンライのジョット寺にて