ウズベキスタン再び・・・・
ウズベキスタンにいた時、友人のMさんが訪ねてくれた。中西さんがいる時に行かなければ一生、行ける所ではないという。タイに来る日本人は年間100万人とも120万人とも言われるが、ウズベクを訪れる邦人観光客は年間わずか数千人、確かに遠い国なのだ。
Mさんはベンチャー支援のファンド発展のために国際的に活躍している人で、日本と米国に半分ずつ住んでいる。ウズベクで講義したベンチャー論のいくつかは彼の著書や彼から提供してもらった資料がもとになっている。新米教師にとっては大恩ある人なので、彼のウズベク滞在中はフルアテンドでお世話させてもらった。タシケントからレギスタン号という直行列車でサマルカンド(写真上)へ行った。サマルカンドは強烈な砂あらしに見舞われ、日中でも薄暗く,茶色の空に弱く光る太陽が肉眼で見えた。シルクロードを行き来した隊商もこの砂あらしには悩まされたことであろう。今でもスイッチを入れると細かい砂を噛んでギリギリと音のするデジカメが、二人で訪れた古都を思い出させてくれる。
サマルカンドでは観光ガイドとしてサマルカンド大学の大学院に通うグルシャン嬢にお世話になった。才色兼備のウズベク女性だ。40代半ばのMさんが20歳以上年下の彼女と、まさか結婚に漕ぎつけるとは、そのときは想像もつかなかった。
自分がウズベキスタンを離れたあと、Mさんはサマルカンドを再訪した。そこで、彼女の親戚の家に連れて行ってもらったり、サマルカンド周辺を詳しく案内してもらっているうちに彼女に惹かれていったらしい。Mさんは自分が見ても、どうしてこれまで結婚したことがないのかと思うくらいの好男子だ。人柄も申し分ない。縁というものはどこに転がっているか判らないものだ。
彼の招待で彼女が日本へ来た。昨夏、隅田川を見下ろす30数階のMさんのマンションで30人近くの邦人、外人が集まって隅田川大花火を見るパーティがあった。グルシャンさんはウズベク料理、プロフをつくってみんなに喜んでもらった。控えめで品格を感じさせる彼女に皆が好意を感じたと思う。パーティのさなか、彼女はマンション入り口に脱ぎ散らかっている靴を一つずつ綺麗に揃えていた。どうしてそんなことするの、と聞くと、だって自分の家ではこうすることが当然でしたから、と答える。Mさんが惚れるのも仕方ないかな、と思ったものだ。
国際結婚は大変だ。特にウズベクのように外国とまじめに国交とか観光客誘致を考えていない国の人と結婚しようと思ったら途方もない障害がある。詳しくは書かないがその障害を一つずつ、1年以上かけて二人は乗り越えた。
井上靖全集27巻「西域物語」の最終章に下記の文章がある。
『一つの民族の興亡の間には、その民族の悲しみや悦びを伝える挿話は無数に生まれている筈である。まして紀元前から今日までの気の遠くなるような長い歳月の間には、数え切れないほどの美しい恋も、悲しい別離も、いまの私たちが想像もできないほどの楽しい団欒も、幸福も、不幸もあった。天山の奥深い山ひだの中にもキジル・クム砂漠のまっただ中にも、あるいはシル・ダリヤ、アム・ダリヤの河岸にもあった。ただそれらを、歴史の大きい波が跡形もなく飲み込み、影も形もなくしてしまったのである。
今の中国の甘粛省の沙州付近に往古の国境の町、敦煌はあったが、その西方の見張塔の中からサマルカンドの若い娘の手紙が発見されている。それはサマルカンドに住む母親に宛てたもので、ソグド語で書かれてあり、四世紀初頭に属するものであった。娘は自分の悩みや悲しみを生き生きとした表現で母親に訴え、やさしい娘の心がその短い手紙の断片によく現れている。この娘はいかなる境遇にあり、いかなる生活を持っていたか判らない。判ることは、彼女が遠い異境にあって、タクラマカン砂漠や天山を越えた向こうの母国の母親のもとに優しい手紙を書いたということだけである。その手紙も砂の中に埋まっていたのであるから、母親のもとには届けられなかったかも知れないし、あるいは別の手紙が母親のもとに届けられたかも知れない。この古い手紙が地上に出たのは一九〇七年、発見者はスタインである。』
4世紀初頭に生きたソグドの娘とグルシャン嬢とが自分の心の中で美しくオーバーラップしている。
7月末、二人は彼女の故郷、サマルカンドでウズベキスタンの儀式に則って結婚式を挙げる。二人を引き会わせた張本人として、披露宴への招待を受けた。遠い異境に嫁ぐグルシャン嬢と清楚で美しい彼女を射止めたMさん(羨ましい!)のために、万難を排してウズベクに行かなくてはならないだろう。
写真下の驢馬は、私の通訳ナフォサットさんの家に一緒に泊まった時のもの