チェンライの市場から

「市場に並べられた商品からその国の生活がわかる」と言われます。当ブログを通じてチェンライに暮らす人々の生活を知って頂きたいと思います。 チェンライに来たのは2009年から、介護ロングステイは2018年8月母の死去で終わりとなり、一人で新しい生活を始めました。

無功徳

イメージ 1

イメージ 2

無功徳

無功徳(むくどく)と読む。禅をかじった人は、達磨大師と梁の武帝の間で交わされた有名な問答をご存知だろう。
達磨大師南インドの香至(こうし)国の第三王子として誕生した。釈迦牟尼佛から数えて第二十七代目の般若多羅尊者の弟子となり、その法燈(佛法がこの世の闇を照らす燈火に喩えて言う語)を継いだ。よって 第二十八代目の祖師であり、また中国に禅を伝えた鼻祖として仰がれている。当時の中国は 北は「北魏」 南は「梁」の国に二分されていた。梁の皇帝は「仏心天使」と言われるほど仏教を熱烈に崇拝していた武帝であった。

達磨大師が、インドから中国の梁の国に来たのが 普通元年(520)九月二十一日、と「景徳傳灯録」にある。広州知事 蕭昂(しゅくこう)(武帝の従兄)、がインドから偉い僧侶が我が国に着(つい)たことを、武帝に奏聞した。この奏聞により武帝自ら車を連ねて大師を梁の都金陵の宮殿に迎え入れた。達磨大師が金陵の宮殿に迎えられると、武帝は大師に「朕、即位以来、寺を造り、経を写し、僧を度すること、勝紀すべからず。何の功徳かあらん~(自分は、皇帝に即位して以来、多くの寺を建立し,経を書き写し、僧侶を養成し、わが民のために多くの事をなしてきた。その数は計り知れないが、どのような、功徳があるであろうか)」

武帝はこんなに仏法のために尽くしていているのだから、大師から、感謝され、きっと来世は極楽にいけるであろう、といった言葉を期待していたのであろう。だが大師の答えはまことに素っ気ないものであった。大師曰く「無功徳(むくどく)」(功徳などない) 武帝おどろき、「何をもってか功徳なきや」 (どうして、功徳がないのか)大師曰く「これ、人天の小果にして、有漏の因なり。影の形に随うがごとく、有りと雖も、実にあらず」 (それはみな 迷いの世界の中の小さな業績なり。迷いの原因を作っておるにすぎない。――影が人に付き纏う様なもので、譬え善意であるにしても、欲望が付き纏っていては、真実ではない ――)

善いことをすると「功徳」と いう お返しを人は心の奥に期待する。これは迷いのもとをこしらえておるようなものだ。お寺を建立したり、僧に供養したり、人民のために 療養所を作ったりするということは,善いことで悪いことではない。しかし、雨露(あまもり)がして部屋に水が漏れると、悩まなければならない様に、功徳を求めてする行為は煩悩のもとである。「あれもしてやった!」「これもしてやった!」と思うようでは、本当に善い事をしたとは、釈迦牟尼佛は教えてない。むしろ、そうする事によって「自我慾」を高めることになり、功徳につき纏う善意は善意であっても「善意にあらず」・「真実にあらず」と。  

佛天子とまで言われた皇帝であり、また人格者で自身は悪衣悪食で一生を過ごし、居住するところも質素な建物だったと謂う。しかし、真の佛法というものをわかっていない、と大師は説くのである。

タイでタンブンを見るたびに達磨大師の「無功徳」を思い出す。タンブンはまさに見返り(現世も来世も)を期待して行なう行為である。タンブンはタイの日常生活、タイ人の精神生活に溶け込んでいる。タンブンはタイの文化を形作っている。 風邪を引くとタンブンしないせいだと500バーツほどタンブンして、全快を祈る。田舎だとラーメン一杯20バーツで食べられる。日本のラーメン一杯700円で換算すれば500バーツは一万数千円の感覚となる。

お寺の池には魚や亀がうようよ泳いでいる1メートル近い鯰もいる。池のほとりでは小さな魚や亀を売っている。池に放流してタンブンするためだ。市場でも20センチほどの田鰻が売られている。佃煮用ではなく、年の数だけお寺の池や川にタンブンするためだ。高齢者だと鰻の数を数えるだけでも大変だ。お寺には先を争ってお金や物品を寄進する。財力のある人はお寺そのものを建立して寄進する。

そんなタイ人のタンブンは達磨大師から見れば「無功徳」でなんの功徳もないということになる。しかし、タンブンのあと、晴れ晴れとした顔をしたタイの人々を見ると、対価を求めない喜びの境地、つまり「功徳」の世界に至っているのではないかという気もする。