チェンライの市場から

「市場に並べられた商品からその国の生活がわかる」と言われます。当ブログを通じてチェンライに暮らす人々の生活を知って頂きたいと思います。 チェンライに来たのは2009年から、介護ロングステイは2018年8月母の死去で終わりとなり、一人で新しい生活を始めました。

母の日常

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母の日常

こちらに来て1ヶ月、全然雨が降らない。今朝の最低気温は21度、日中は30度を越えるが湿度が40%以下なので、それ程蒸し暑く感じない。夕方からまた気温が下がり始めるので熱帯夜になることはなく、爽やかである。11月から3月までが乾季で、チェンライのベストシーズンといわれている。いいときに来たと思う。

介護経験のある方には分かっていただけると思うが、暖かいということ、天気がいいということは、介護者にとって大変有難いことである。母は衣服の着脱に介助が必要だが、こちらではTシャツ1枚、短パン1枚ですむから、食事で汚しても簡単に着替えることができる。洗濯や布団干しも心配ない。日本にいるとき布団を干さなければならないのに雨、次の日も雨の予報、となると暗澹たる気持になったものだ。暖かいせいか、また夜中でも女中さんが世話を焼いてくれるのか、こちらに来て布団干しは余り必要なくなった。洗濯も含めこういった仕事から解放されたのは嬉しい。今日も明日も雨模様で寒い日が続くでしょう、といったNHKの天気予報を見るたびに兄弟で、こっちへ来てよかったな、と言い合ったものだ。

日本にいるとき、デイケアで週に2回入浴させてもらっていた。こちらでは毎日、2人の女中さんの介助でシャワーを浴びさせてもらっている。日本にいるときと同じで、熱い、冷たい、やめて、なぜこんなことするの、と大騒ぎだが、バスタオルで体を拭き、新しいシャツに着替えるころになると、おねえさん、ありがとう、などと言っている。

女中さんも母のありがとう、おいしい、やめて、といった日本語を理解するようになっている。ジェスチャーが伴うから何となく分かるのだろう。「おねえさん」の呼びかけにも「はい、はい」と答えている。もちろん母はタイ語が分からないが、女中さんとの関係で特に問題はない。認知症のお母さんをこちらで見ていた人の話しを聞くと、女中さんと言葉が通じないことにかんしゃくを起こして大変だったとのこと。先日、兄が日本に一時帰国するとき、「一度、日本に戻ってまた来るからね」と告げたところ母の答えは「日本てどこ?」というものだった。タイにいることを認識していないようだ。タイの珍しい食べ物、果物にもほとんど興味を示さないほど、認知症が進んでいる。意思疎通で女中さんともめるほどもはや頭脳明晰ではないということか。いいような、悲しいような気持だ。

もう少し認知症が進んでいたら、パスポート取得や海外渡航が難しかったと思うし、もう少し認知症が軽度であれば、タイ生活への溶け込みに問題が起きたことと思う。そういう意味で丁度よいときにタイに来ることができたという感じがしている。

母はじっとしていることが嫌いなようで、長いすからソファへ、食卓でもイスを移動する。女中さんに手を引いてもらって家の中を歩き回るのも好きだ。おかげで日本にいたときより足もとがしっかりしてきた。ひとりで歩けるほど足が丈夫だったら立派な徘徊老人になっていたと思う。車椅子に乗って近所を散歩することを本人は「歩く」と言って1日2,3度繰り返す。散歩中、日傘をさしているのだが、日差しが強いので日に焼けて黒くなってしまった。「折角の色白美人が台無しだね」というと、「本当だねー」とまじめに答えている。まだしっかりしているのではないかと思うときだ。母は、近所で出会う人、誰にでも「こんにちわ、ご苦労様です」と日本語で声をかける。こちらの人は必ず「サワディーカー」とにこやかに挨拶を返す。そんなときタイの人の優しさを感じる。子供はお気に入りのようで挨拶してくれる子に「可愛いねえ」を連発している。

日本では街で「ひでき、ひできー」と知らない人に声をかけるので兄がいつも当惑していたそうだ。「それがよー、腹が出ていて、頭の毛が薄いおっさんにだけ呼びかけていたよ」と兄に言われ、こちらがすっかり当惑してしまった。やはり母の病気は日本にいたときはかなり進行していたのだろう。

こちらで変な体型のタイ人に「ひでき」と呼びかけないだけ、病状が改善しているのだと思いたい。