初めてのアカ村 その3
新種のランは高値で取引される。新種のランを作り出すには既存のランと野生のランを掛け合わせることが必要だ。だからランの愛好家は美しく丈夫な野生のランを探してタイの山奥に分け入る。
ある日本人のラン愛好家がタイの山岳民族の村を訪ねた。軒先に惚れ惚れするような美しいランの花が下がっていた。これは値打ちものだ。早速、そこにいたおばあさんに、このランを譲ってくれるように頼んだ。おばあさんは「このランは孫娘のものだから孫娘に聞いておくれ。」
そこで少女が呼ばれた。14、5歳の清楚な女の子だった。愛好家はぜひこのランを譲ってほしいと頼み、100バーツではどうか、200バーツではどうか、と値段交渉をはじめた。少女は俯いたまま答えない。可愛い顔をしているくせに、この小娘はなんて商売がうまいのだろう、内心イライラしながら、これでもか、これでもかと値段を吊り上げていった。
最後に少女は顔を上げて言った。「この花は私に心の喜びを与えてくれるのです。もし無くなってしまったら私はとてもさびしい気持ちになるでしょう。ですからいくら頂いてもお譲りする気になれないのです」と。自分の儲けだけを考え、お金で人は動くと思っていたその日本人は恥ずかしくなってそのまま山を下りた・・・・・
村人と飲み交わす焼酎は二本目に入っていた。ラン愛好家の頼みを毅然と断った少女と村の子供たちが重なり合って見えた。こういった気持ちのいい人たちに囲まれて、子供に英語や算数を教えて暮らす生活も悪くないか・・・。
Hさんが「こちらの先生のレベルは低いから中西さん、きっと喜ばれますよ。」とけしかける。アダムに月5千バーツくらいで下宿させてもらえるだろうか、子供たちの勉強をみることくらいはできるが・・と聞くと、答えは「無料でいいですからいつまでもご滞在下さい。」というものだった。そのやりとりに村人がどっと沸く。
今、思い返してみてもあの焼酎をもう1本飲んでいたら、あそこの村から会社に退職届を送って、そのまま村で暮らしていたに違いない。
残念なような、ほっとしたような複雑な気分だ・・・・・・・・
このレポートを書いてから6年経った。それから何度チェンライに、また何度アダムの村を訪れたことだろう。その度にアダムの家に泊まり、焼酎をご馳走になったものだ。
稲作を行い、餅を搗き、高床式の家に住み、神社のそれと同じ鳥居(画像)を作り、下駄をはくといった文化的共通性から、アカ族を古代日本人のルーツの一つと結論付ける民俗学者もいる。(大阪教育大学鳥越憲三郎名誉教授の『雲南からの道』など)
現在のアカ族のおかれている状況についてはアカ族の人権擁護を推進しているthe Akha Heritage FoundationというNGOの資料が参考になった。この膨大なネット資料を逐一読み、代表のマクダニエル氏と毎日のようにメール交換していたことを懐かしく思い出す。
(彼はアカの文化を破壊するキリスト教のミッショナリーを激しく攻撃している。またアカ族を虫ケラ同然に扱うタイ政府を厳しく指弾するばかりでなく、人権派弁護士を呼んで国連に訴えようとしたため、タイ政府より「ペルソナ・ノン・グラータ(好ましからざる人物)」として国外追放になっている。今はラオスでアカ族の家族と暮しながら活動を続けている)
民俗学者、宮本常一は「民俗を調査するには時折訪ねて、話を聞くだけではだめなのです。本当は何年か住み込んで肌でその土地の習俗を体感しなければならないのです」といった意味のことを書き残している。
自分は「アカ村の宮本常一」になる、などとは決して思っていないが、タイ政府の内国民化政策で滅んでいくアカ族の文化を体感してみたい。そして面白いな、と自分が感じたことを書いてみたいという気はある。
もっとも、そういった「やる気」は上等の焼酎の前にはかなく消えうせ、「このアカ村には朝からテレテレ飲んでるアル中の爺さんがいるよ、確か日本人ていってたな」ということになる公算も大・・・・と思う。でもそれはそれで、またいいのではないか。