チェンライの市場から

「市場に並べられた商品からその国の生活がわかる」と言われます。当ブログを通じてチェンライに暮らす人々の生活を知って頂きたいと思います。 チェンライに来たのは2009年から、介護ロングステイは2018年8月母の死去で終わりとなり、一人で新しい生活を始めました。

初めてのアカ村 2

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初めてのアカ村 その2 

アカ族はもともとチベット高原から中国の雲南省を経由して南下してきたチベット=ビルマ語族の焼畑移動民である。タイに入ってきたのは百年くらい前でそれほど古いことではない。焼畑のための耕作地にあわせて、数年から十数年単位で村ごとの移動を繰り返し、山の中腹か尾根にまたがった高いところに100人から300人程度の村を単位として、焼畑農耕と狩猟採集の生活を営んできた。

大きく分けてアカ族はロミアカ、ウロアカ、チョブアカ、ウビヤアカの4種族にわかれる。タイには約5万人のアカ族が260ほどの村に分かれて住んでいるといわれる。アカ族は独自のアカ語を話すが、タイ政府の定住政策もあって、若い人はタイ語教育を受け、タイ語を理解する。しかし、いくらタイ語が出来てもタイ族からは差別されているのが実情である。にもかかわらず彼らは誇り高く、細かい刺繍の施された民族衣装をまとって山を下り、チェンライやチェンマイのバザールで農作物を売ったり、買い物をしたりしている。

 我々の訪れた村は国道を外れた未舗装の山道を車で2時間登った所にあった。日本では考えられない急勾配のアップダウンの連続で運転を誤れば、即、崖下真っ逆さまというスリル満点のドライブだった。車窓から見える山の斜面には黒く焼け焦げているところがあり、焼け残った大木の切り株が痛々しい。そこにとうもろこしやバナナなどが栽培されている。

焼畑農業は河川の氾濫の原因となり、自然破壊、大気汚染など環境に悪影響を及ぼす。従って焼畑農業は、表向きタイ政府に禁止されているのだが、阿片の原料となるケシを栽培しない限り黙認されているようだ。阿片は他の農作物に比べ高額で取引されるため、以前はタイ、ミャンマーラオスのゴールデントライアングルに住む山岳民族の間では大々的にケシの栽培、麻薬の取引が行われていた。(今は各国政府の厳しい麻薬対策があって、麻薬取引はほとんど行われていない。)
 
さて、村ではHさんの旧知、アダムが一族を挙げて出迎えてくれた。アダムは35,6歳、村の副村長である。珍しい日本人を見ようと子供や大人がぞろぞろ集まってくる。みなニコニコしていて人懐こい。12,3歳の女の子が「ワッチュアネーム?」などと話し掛けてくる。タイでは小学校から英語を教えているのだ。

広場には子犬くらいの大きさの毛の生えた子豚がいっぱい遊んでいた。軍鶏に似たニワトリもそこら中を徘徊している。数年前にHさんが来たときはスッポンポンの子供がいっぱいいたそうだが、今は質素ではあるがちゃんとTシャツを着ている。4年前に電気が引かれたそうで、ラジカセ、冷蔵庫などもある。子供の多さを見ていると昭和20年後半か30年はじめの日本にいるような懐かしさを感じる。

アカ族特有の高床式の家に案内され、サラといわれるオープンエアのテラスでこころづくしの昼食をご馳走になった。わざわざ我々のためにニワトリを一羽つぶしてくれた。鶏肉は歯ごたえがあって本当のニワトリの味がする。かぼちゃのツルとインゲン豆の鶏肉スープは絶品だった。酒好きの私のために密造焼酎も出してくれた。この焼酎は上品な味で信じられないくらいおいしい。

村は120戸、人口は千人くらい、小学校も病院もある大きな村だ。アダムは主として生姜を栽培している。1キロの生姜を植えると5-8キロに育つ。キロ15バーツで売れる。タイの生姜は日本にも輸出されている。我々も寿司屋のガリや牛丼店の紅生姜でタイの生姜にお目にかかっているはずだ。他には茶、プラム、コーヒーなどを栽培している。

アカ族は祖先からの精霊信仰があったが、農業指導員を兼ねた欧米の宣教師が多く進出してきた影響でキリスト教に改宗している人が多い。この村もアダムという名前が示すように9割の村民がキリスト教徒だという。1000メートル以上の高地であるから数年に一回くらい、屋根が真っ白になるほどの降雪がある。雪が降ると家畜や老人が寒さで死ぬとのことだった。
 
そういった話をしているとき、沛然として雨が降ってきた。雨は斜面に連なる萱葺き屋根を濡らした。家々の軒先にはさりげなくランの花が飾られている。Hさんが「あのランはみんな山から持ってきた野生のランですよ」と教えてくれた。気持ちよく酔った頭の中に蘇えってきた話がある。確かJALの機内紙に載っていたランと山岳民族の少女を巡るエピソードだ。(続く)