チェンライの市場から

「市場に並べられた商品からその国の生活がわかる」と言われます。当ブログを通じてチェンライに暮らす人々の生活を知って頂きたいと思います。 チェンライに来たのは2009年から、介護ロングステイは2018年8月母の死去で終わりとなり、一人で新しい生活を始めました。

お手伝いさん

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お手伝いさん

タイでは母のために介護士を雇うことを考えていた。しかし介護学校調査に同道してくれたHさんが、介護士の費用、つまり12時間労働、週休1回で月給7500バーツは高すぎる、それに掃除や炊事、買い物だってしてくれない、それでしたら介護経験のある住み込みの女中を雇った方がいいですよ、という。
(こちらの邦人は、お手伝いさんを女中と呼ぶ。女中は日本では「差別語」として、放送禁止用語になっているが、日常みなさん、女中あるいはタイ語で「メバーン」と言うので、女中で通すことにする)

チェンマイ、チェンライでは日本でいう老人ホーム、特養といった施設の存在を聞かない。
大家族主義であるから老人の世話は家族で、あるいは孤老の場合、地域で世話をするシステムとなっているからだ。従って多くのタイ女性は介護経験がある。また、老人に優しく接する文化があるので、普通の介護であれば女中さんで充分用が足りるとのことだ。

タイ北部はバンコクに比べて物価が安い。労働力も余っている。一般の女性が現金収入を得るのは難しい。朝、暗いうちから夕暮れまで田んぼで泥だらけになって働いても日給は150バーツだ。だから女中希望の女性はいくらでもいるという。

紹介してくれた女中さんはHさんの奥さんが2週間ほどお寺にお籠もりした時に知り合った女性。名前はポパ。条件は住み込み24時間勤務で月給7000バーツ(約1万8千円)。炊事、洗濯、掃除、買い物など家事一般に加え、母の介護も出来ますとのこと。

タイに到着して2日目にチェンライの借家に移り、そこでポパ(写真:黄色いシャツ)に会った。35歳、まじめそうな女性だ。指差しタイ会話帳、泰日、日泰辞書を介してお互いの意思疎通を図る。ポパは尼さん志望、会話帳の中の「職業」ページで尼さんと看護師の単語を指差す。お寺の運営する施設で働いていたことがあるらしい。

ポパは初日から母の手をとっての歩行の補助やトイレの介助などてきぱきとこなす。
夜は母のベッドに自分のベッドを密着させ、お腹が痛いと叫び続ける母を抱いて背中をさすっている。深夜、何度も母に起こされて、そのたびに手を引いてトイレに連れて行っている。

初めからどんどんやらせないと、甘えて何もやらなくなりますよ、と邦人から脅かされているので、横から様子を見るだけで手助けは控えたが、実によくやってくれる。日本で看護師さんを頼んでもここまで親身にはやってもらえないだろうと思うほどだ。

日中も家事の傍ら、手が空けば母の横に座って母の面倒を見てくれる。自分が最初に覚えたタイ語が「チュアイドゥワイ(助けて)」で、何かあるとすぐ彼女を呼んで母の世話を頼む。

ポパは、夜中にもひっきりなしに起こされるせいでほとんど寝ていない。また火を使ったり、洗濯物を干す場合、母から目が離れる。彼女一人では負担が大きいし、出来ないこともあることが判ってきた。そこで、もう一人女中さんを頼むことにした。1週間後、40歳くらいの女性がやってきた。
名前はノーイ(写真:ピンクのシャツ)、料理が得意という明るいオバサンだ。労働条件はポパと同じ。これで、24時間2人体制で母の介護が可能になった。
これならば兄弟揃って街へ出かけることも出来る。慣れてくれば泊りがけの旅行も出来るだろう。久しぶりに味わう解放感である。

タイで暮らした人の記録を読むと、女中さんで苦労した話がゴマンと出てくる。黙って物を持ち出す。プイと出たきり戻らない。お金をくすねる。初めはよくてもだんだん悪くなる・・・・
しかし全部が悪口ではなく、女中さんに恵まれれば、タイの生活は一段と快適なものになるでしょう、とも書いてある。

二人とも仲良く、母の面倒を一生懸命見てくれている。母も、「英語を話すので困るんだよ」とこぼしながらも「おねえさん、ありがとう」などと言っている。言葉が通じなくても心は通じるということか。

まだ2週間しか経っていないが、今のところ、女中さんに恵まれた、と言わざるを得ない。

画像はタガメ、コオロギ、カイコの佃煮、一皿20バーツなり