チェンライの市場から

「市場に並べられた商品からその国の生活がわかる」と言われます。当ブログを通じてチェンライに暮らす人々の生活を知って頂きたいと思います。 チェンライに来たのは2009年から、介護ロングステイは2018年8月母の死去で終わりとなり、一人で新しい生活を始めました。

タイヘ出発 その3

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タイヘ出発 3

英語でSkelton in the Closetという言葉がある。直訳は「衣装棚の骸骨」であるが、身内の恥、とかよそ様には明かしたくない家庭の秘密の意味で使われる。どこの家庭にも世間に知られたくないことはある。

介護もその一つだろう。母の場合、前頭葉、側頭葉が萎縮しているので、人格が変わり、脈絡のないことを言ったり、同じことを繰り返し叫んだりする。うちの母はこーなんです、などど書くのではないだろうな、とここ3年、母の世話を一人でしてきた兄は、自分がブログで介護問題を扱うことを快く思っていない。

出版やネットで出ている介護の記録を読むと、かなり赤裸々に、ここまで書いていいのかな、と思われるものがある。こういった本の多くは、娘が母を看取ったというケースだ。母娘だから遠慮がないのだろうか。

昨年3月にウズベクから2年の勤務を終えて帰国した時、母の変わりようにビックリした。自分のことは何とか息子とわかってくれるが、テレビ、新聞等、外界には全く関心を示さず、ただ「おなかが痛い」と繰り返し訴えるだけ。内科医は腹部には全く異常はなく、ただ不安感の表れでしょう、と薬の処方もない。

介護は本当に厳しい。介護者は、精神的にも肉体的にも、もう自分が壊れるという状況にまで追い詰められることになる。やむを得ざる選択として病院や施設に親(被介護者)を入れたとしても誰も非難は出来ないだろう。しかし前にも書いたように、それは自分の親という個性を、十羽一からげの「認知症患者集団」として扱うという病院、施設の論理に委ねるという苦い選択なのだ。
「私は自分の母親を施設に棄てた大悪人です」と自嘲する知人の心の痛みは、我々自身の問題でもあった。

母が母らしい生活をおくることが出来、かつ自分もやりたいことが出来る。その可能性としてタイでの生活があった。タイで母親の介護をしたHさんの話が思い出されたのだ。
Hさんとも連絡を取り、12月にタイに行った。現地では介護士派遣の状況、医療事情、家の下見などを行った。
タイで支払った医療費は日本の国民健康保険でカバーできること、英文の紹介状があれば日本で処方されている薬をタイの医師から処方してもらえること、医師は英語を話す、また1年制の介護士学校を見学し、学校から介護士を派遣してもらえること、12時間労働、週休1回(但し1日千円ほどで休日買い上げも出来る)で月額7500バーツ(約2万円)という条件であることなどを聞いた。
調べきれないこともあったが、現地在住17年のHさんの全面的バックアップがあることから、何とか行けそうかな、という感触を得ることができた。

本来であれば自分がまず家を借り、家財道具を揃え、お手伝いさんを雇い、生活基盤を整えてから、母を呼び寄せるべきであった。しかし、なれない自分では相当の時間を要する。母の病状はもうギリギリまで来ており、何とか飛行機に乗れるうちにタイに連れていきたい。そこで、家もお手伝いさんもHさんのご好意に甘え、全部準備をお願いすることした。

「お前の言うことを聞いていると、まるでこの世の天国みたいなところだが大丈夫だろうな」と兄が言う。昔からこの弟は信用がないのだ。「まあ、新潟港から出発するわけではないし、向こうでは週2回以上、肉のスープが飲めるはず・・・」などと答えるので、益々不安になるようだ。

自分とて何も心配がないわけではない。
しかし、兄弟で母の介護をタイで続けようと決めたからにはもう他に道はないのだ。

写真はナンバープレート無しでも運転できる、アジア仕様のシティ1500cc4ドアセダンと
市場で見かけた、チョコレート味がするらしい「タガメ」。