チェンライの市場から

「市場に並べられた商品からその国の生活がわかる」と言われます。当ブログを通じてチェンライに暮らす人々の生活を知って頂きたいと思います。 チェンライに来たのは2009年から、介護ロングステイは2018年8月母の死去で終わりとなり、一人で新しい生活を始めました。

リハビリ

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リハビリ

あの人は「デワノカミ」だと言われる人がいる。海外から帰ってくると、何かにつけ、「アメリカでは・・」、「フランスでは・・・」と講釈を垂れるからだ。自分は家人から「ウズベク出羽の守」と揶揄されている。スーパーに行っても、テレビを見ても、地下鉄に乗っても、すぐ「ウズベクでは・・」と言うらしい。

それにしても日本の物価の高いのには驚く。ちょっと交通機関を利用すると、300円、400円とかかる。タシケント市内は地下鉄、バスがどこまで乗っても一律20円くらいだ。300円あれば白タクでタシケントの端から端まで行ける。日本円で1000円もあれば乗り合いタクシーでタシケントから300キロ離れたサマルカンドまで行ける。

先日、銀座のF堂でコーヒーを飲んだが、1杯千円だ。ウズベクだったら晩餐会と言っていい夕食が取れる値段だ。ただF堂の洋菓子の洗練された美しさには驚き、しばらく見入ってしまった。ショートケーキが一つ6百円でも仕方ないのか。国が違うのだから物価が違って当たり前ということは頭では分かっていても、まだ釈然としないことが多い。

ウズベクで頑張る協力隊員の手当ては月340ドル、SVは680ドルである。隊員は白タクに乗り、外食をし、時には宴会に出席しても何とか月340ドルでやっていけると言っていたし、自分も原則的に自炊生活だったせいか、月、350ドルもあれば生活できた。任国外旅行や絹製の絨毯購入などの大散財をしなければ、お金が足りなくなるということはない。わずか680ドルの手当てであったが気分的にはとても裕福な日々を送っていた。

ところが日本に帰ってまずパスポート取得に1万6千円、失効した運転免許の再取得に8千円、それから大学の先輩がプロデュースしたミュージカルのチケットが8千5百円とお金に羽が生えたように飛んでいく。ウズベクではバレエやオペラのチケットが270円だったのにと慨嘆しても仕方がないのだが。

運転免許は失効した公用旅券を提示することにより、問題なく再取得できたが、これから1年、車を運転する時は「若葉マーク」を車につけないといけないらしい。そりゃ2年ウズベクで運転しなかったが、30年以上の運転歴は無視される。

帰国後、早速出向いたのがハローワークである。昔は職業安定所といったが、ハイカラな名前になってビルの中も明るく、係員の対応も親切だった。手続きの時、係員から「ホー、外国では何をしていたのですか」と質問を受けた。「JICAのSVとして派遣され、バンク・カレッジで教えていました」。すると重ねて「どんな科目を?」「・・・ベンチャー論を教えていました」と小さい声で答えた。ベンチャー論を教えていた人が失業手当を貰いにくるというのも考えようによっては変なものだ。

昔から失業手当を貰いながらパチンコに行くと言う生活に憧れていたが、まじめに求職活動をしないと支給停止になるらしい。結構現実は厳しい。ハローワークで行われた失業保険の説明会には50人くらいの人が集まっていた。自分と同じ年配の人は1割くらいで、30代、40代の人が多い。これだけ多くの若い人が求職していると言うことは、景気の回復はまだ本物ではないのかと思った。

日本に帰ったら、あれを食べよう、これも食べたい、などと思っていたが、帰国してみるとまあいつでも食べられるのだし、とお寿司屋さんやラーメン店に足しげく行くほどではない。ただ、ビールは飲むたびに、ああ、日本に帰ってきてよかった、と感動する。どこのメーカーでも発泡酒でも日本のビールは美味しい。特に友人とジョッキで飲む生ビールの味はなんともいえない。更によく帰ってきたな、今日は俺のおごりだ、などと言われるとビールのうまさは倍加する。

そこで、ウズベクではビールがこんな味で、料理は焼肉が多くて・・・などとウズベク出羽の守が始まると言うわけだ。
なお、帰国して「どこの国も同じで参考にならんよ」と憮然として言う人を、「豊前の守」というらしい。