チェンライの市場から

「市場に並べられた商品からその国の生活がわかる」と言われます。当ブログを通じてチェンライに暮らす人々の生活を知って頂きたいと思います。 チェンライに来たのは2009年から、介護ロングステイは2018年8月母の死去で終わりとなり、一人で新しい生活を始めました。

JICAへ帰国報告

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JICAへ帰国報告

帰国2日目は健康診断と帰国報告がある。健康診断は新宿のMクリニック、SVに合格した時、健康診断をした病院だ。合格時に比べてずっと簡単な診断で午前中に終ってしまった。帰国報告は17時過ぎからの20分である。何人もの関係者の前で喋ることになるのかと思ったが、担当者との面談形式で原稿など用意しなくてもいいらしい。

帰国報告の前に公用旅券返納と旅費関連の事務手続きを済ませた。公用旅券を持っていても何もいいことはなかったと言う人が多い。しかし自分の場合、任国外旅行に出かけた折、混雑しているイミグレーションを「外交官、公用旅券所有者」というがら空きの窓口を通過して、「やったね」という気分になったことがある。公用旅券を持っていてよかったと思ったのはその一回だけであったが。

帰国報告は個人面談方式で、一緒にウズベクから帰ったI さんの次、小さな応接室でJICA担当者と向き合う。30歳くらいの眼鏡をかけたにこやかな女性だ。面談に当たっては帰任者の報告書に全部目を通してくれているらしい。

SVは着任直後に書く活動計画書から始まって6ヶ月ごとに1本、全部で5本の報告書をJICAに提出することになっている。余り催促されることがないのをいいことに、今年の1月まで1本も提出していなかった。まあ書こうと思えばいつでも書けるし、などと思っていたらいつの間にか2年近くたってしまったのだ。

いい加減に提出して下さい、報告書未提出の人には帰国手当てが支給されませんよ、と調整員に怒られて5本の報告書を書き始めたのが、今年の正月休みの1月4日、気合を入れて朝からパソコンに向かった。そして1月5日の昼までにA4用紙で50枚の報告書を一気に書き上げた。帰国直前に提出する帰国報告書要旨もついでに書いた。

活動報告書は報告項目が決められているので、それに従って書いていけばよい。このようにすぐ書けるのだったら早く提出してJICA関係者に不快な思いをさせるのではなかった。50枚と言っても活動内容の補足資料として、メール配信の原稿を再利用し、報告書に2,3通添付して水増しを図っている。 なかなか充実した活動をされてきたようですね、是非またどこかの国でボランティア活動を、と勧められた。 事情があり、再派遣については余りポジティブな返事はできなかったが、派遣国に関する原稿執筆、あるいはシニア海外ボランティアの説明会や出前講演への出席等への可否については、お手伝いできることがあれば、と答えておいた。SVを一人、JICAから派遣すると2千万円かかるという。それだけ国費でお世話になったのであるから、ムゲにお断りすることは出来ない。

バンクカレッジで教える自分の後任は今年の12月派遣になるらしい。制度が変わってSVも協力隊員と一緒に駒ヶ根の研修所で2ヶ月以上の語学研修を受ける。更にウズベクに着任してから1ヶ月のロシア語研修を受けねばならない。これは無駄ではないか、と申し上げた。

自動車修理、スポーツ指導のような科目と違って、ベンチャー論のような社会科学の講義は3ヶ月の語学研修だけでこなせるものではない。英語で講義し、ウズベク語の通訳がつくのであれば、せっかく習ったロシア語は買い物、タクシーなどのサバイバルロシア語を除けば忘れてしまう。 英語で授業するのであるから忘れていくロシア語の研修より英語のブラッシュアップをはかるのがよいのではないかと思う。

2日後、大阪から上京してきたOさんと東京駅地下街の居酒屋で飲んだ。彼は専門家としてウズベクに派遣されていて、6月にはまた短期専門家としてウズベクに行かれるらしい。おでんや冷奴で「玉の光」という京都の大吟醸を酌み交わした。混雑した店内であったが、どの従業員に頼んでも注文を聞いてくれ、すぐに運んできてくれる。何度もジェーブシカ(おねえさん)と呼びかけても、なかなか注文をとりに来てくれないウズベクのカフェと大違い、と二人の日ウ比較談義は尽きることがなかった。