チェンライの市場から

「市場に並べられた商品からその国の生活がわかる」と言われます。当ブログを通じてチェンライに暮らす人々の生活を知って頂きたいと思います。 チェンライに来たのは2009年から、介護ロングステイは2018年8月母の死去で終わりとなり、一人で新しい生活を始めました。

タシケントでの年末年始

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タシケントでの年末年始

明けましておめでとうございます。本年が皆様方にとって良い年となりますよう願っております。今年も「ウズベクのバザールから」をよろしくお願いいたします。

今年もよろしく、と書いたがJICAでの任期は本年3月末までである。「ウズベクのバザールから」もそこで書き止めということになるのだろう。

この国に着任して以来、何故だろう、どうしてだろうと思うことの連続だった。今でもそれは変わらない。だから書くことには事欠かない。基本的には生活を楽しんでいるが、発展途上国であるから、落胆、驚愕、嚇怒、慨嘆といった事態に遭遇したことは枚挙にいとまがない。

「泣いた日もある、恨んだことも、思い出すだろ、懐かしく、ああ、シニア・ボランティア、僕ら、道はそれぞれ別れても、2度と会うまい、ウズベクで」、といった舟木一夫の「高校3年生」の替え歌を帰国するSVに贈ったことがある。(もちろん冗談だ)

ウズベクで会うことはなくても、日本・ウズベキタン協会、タシケント日本人会OB会などの団体はあるし、隊員たちも帰国後、個別に親交を続けているようだ。何人かの隊員や帰国した知人から年始のご挨拶を頂いて嬉しかった。

さて、ウズベクスンニー派イスラム国家であるが、ソ連に100年以上支配された歴史があり、ウオッカは飲むし、バザールでは豚肉も売っている。

12月にはジングルベルが聞かれ、クリスマスツリーも珍しいものではない。イスラムの人しか来ないと言われる旧市街のチョルズバザールの入り口にはサンタクロースの絵が描かれていた。(写真)

街には年末まで赤いサンタのコスチュームの人が何人も行きかっていた。どういうことになっているのか。タシケント市内は12月23日から25日にかけて降雪があり、文字通りのホワイトクリスマスになった。

学校の授業もなく、12月は暇だろうと思っていたが、日本と同じく、結構付き合いが多い。

タシケントの最高級ホテル、インターコンチネンタルで開催された、インターナショナル・スクール主催のダンス・パーティに行ってみた。スクール出身者のスカラーシップのための寄金拠出パーティで、参加費は35ドル。普通の飲み会の会費がドル換算9ドル位であるから、35ドルというのは破格の会費である。会場へ行ってみると、タキシード、イブニングドレスの外人で一杯だった。生バンドの演奏、フルコースの食事、ウズベク製でないワイン、キャンドルの淡い明かりのロマンチックな会場、そしてダンス。舞踏会というのはこういうものを言うのだろうか。ただ一つの不満は、大使館関係者を始め、日本人参加者は固まってテーブルについているのに、自分はインターナショナルテーブルで、右隣がターニャという朝鮮系ウズベク女性、左隣がべべというイタリア女性でずっと英語で話さなければならなかったことだ。

天皇陛下お誕生日祝賀会、日本人会忘年会も楽しく忘れがたい。特に日本人会は英語を話す必要がなく、くじ引きでフランス製ワインが当たったし、ゲームなどをやって、大使以下ウズベク在住邦人で大いに盛り上がった。

31日に正月準備でバザールへ出かけてみたら、いつもより人出が多く、ワインやウオッカを売る屋台がいくつも出ていた。やはりこちらでも新年のお祝いをするようだ。

晦日の夜はSVの家に有志が集まって紅白歌合戦を見た。時差があるので行くる年、来る年をこっちの午後8時に見て、明けましておめでとうと言っていいものやら、よいお年をと言うべきものやらわからぬまま帰宅した。深夜、あちこちで爆竹が鳴って新年の訪れを告げていた。

元旦、2日と散歩に出てみたが、レストラン、商店はほとんど閉まっていた。日本のほうが開業している商店が多いのではないか。ウズベクでは、元旦はごく普通の祝日で官公庁は3日から通常出勤。近くの肉屋も3日から開いた。

正月休みにやらねば、と思っていることがある。半年毎に業務レポートをJICAに提出しなければならないのだが、まだ1枚も書いていない。調整員にしてみればこんなブログ書くヒマあったら、早く業務レポート出しなさい、というところだろう。

「帰国までの半月でレポート出せというけれど、一人で暮らしたふたとせを、何ではかればいいのだろ、ウズベク時代が夢なんて、あとからしみじみ思うもの、ウズベク時代の真ん中は胸にトゲさすことばかり」、帰国するSVに贈った森田公作とトップギャラン「青春時代」の替え歌を一人つぶやいて、だらだらと時間を過ごしている。