チェンライの市場から

「市場に並べられた商品からその国の生活がわかる」と言われます。当ブログを通じてチェンライに暮らす人々の生活を知って頂きたいと思います。 チェンライに来たのは2009年から、介護ロングステイは2018年8月母の死去で終わりとなり、一人で新しい生活を始めました。

地方巡業 4

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地方巡業 その4

トゥルクール・バンク・カレッジに日本人が来て話すのは初めてのことである。生徒にとって日本とは、日本人とは、と興味津々だったようだ。反応がいいのでこちらも力が入り、1時間半しゃべって、あと30分の質疑応答と2時間も頑張ってしまった。質疑応答では日本人の宗教観、日本人のIQ(日本人は頭がいいと信じられている)、日本の若い人の起業に関する考え、人気起業分野、家族状況、ウズベクをどう思うか、など雑多な質問が出された。



12時半を回って、学長室に戻ると、お菓子やパンが用意されている。お昼にしてはさっぱりしているな、と思いながら先生方とお茶を飲んだ。そこにカラカルパックの地方紙の女性記者がいて、ウズベクと起業について取材を受ける。初めて日本人を見る生徒といい、新聞記者といい、自分を通して日本を感じるわけであるから、あまりいい加減なことや失礼なことは言えない。ウズベクにも製造業の伝統はあり、バザールの賑わいを見ればベンチャー精神は旺盛である。日本に追いつくこともシステムの違いはあるがそう難しいことではないのではないか、などと答える。(システムとさらりと言っているがシステムとは文化、慣習であり、これが変わらないと発展は難しいのではないかと個人的には考えている)

朝が早かったし、2時間話してお腹が空いていたので、パンをほおばっているとルスタン学長が、「さあ、昼食に行くぞ」と言う。学校のパンはお茶の添え物で、これとは別に自宅での昼食に招待してくれると言うことがわかった。こんなにパンを食べるんじゃなかった。

学校幹部数名と学長宅に向かった。豪壮な大邸宅である。30人は座れる大テーブルにお菓子や果物、カットグラスのコップ、真っ白なテーブルセットが用意されいている。テーブル両側に3名ずつすわり議長席に当たるところに座らされた。サラダ数種から始まる昼餐だ。次から次へと料理が運ばれてくる。運んでくるのは執事のような男性で、女性は厨房で働いているようだ。

当たり前のようにウオッカがグラスになみなみと注がれる。初めに乾杯の音頭をとらされた。招待への感謝の辞を述べ、ウズベクと日本の友情がアムダリア、シムダリアに水が流れ続ける限り、続くことを信じています、と結ぶ。いつものセリフなのでナフォサットがいたずらっぽく笑いながら通訳してくれた。その後は素晴らしい講義に感謝して、とか学校の発展を祈って、とか言いながら乾杯を重ねる。乾杯と言ってもよく見ると先生方の中には完全に飲み干さない人もいる。英語で言うボトムズ・アップでなくてもいいらしい。

食事は奥さんが中心になって用意したとのことだが、ウズベクへ来てご馳走になった料理の中でも最高のものだった。カラカルパクでしか売られていないというウォッカも上品な味で、初めてウオッカを美味しい飲み物だと感じた。

昼食後、学長が車を運転して観光地を案内してくれるとのことだが、学長は結構飲んでいる。ウズベク語がレロレロしている。そんなに飲んで、と心配になった。(後でわかったことだが、ホラズム地方のウズベク語には特有の訛りがある。それは酒が冷めた後も学長がレロレロしゃべっていると言うことでそういうことがわかった)

学長の5歳になる男の子と美人の奥さんを紹介してもらった。ナフォサットによると学長の奥さんは29歳、小児科医で今日は病院を休んだとのこと。女性同士では出身大学、職業はもちろん、年齢なども紹介しあうらしい。男性が女性の年を聞くのはやはり失礼に当たるとのこと。

古代ホレズム王国のあったカラカルパクスタン自治共和国には多くのカラ(古代城砦)がある。その数1000とヘロトドスの「歴史」には記されているが、調査されたものは300に満たない。ルスタン学長が自宅から100キロくらい離れたグルドゥルスン・カラに案内してくれた。キジルクム砂漠の中にあるアヤズクル湖の近くに位置する巨大な遺跡である。高さ10メートル、幅4メートルの土塁が300メートル X 800メートルほど長方形に取り囲んでいる。 ホラズム地方最大のカラだ。いざと言う時には数万の人が逃げ込めたのではないか。つい最近まで馬で土壁の上に登り、カラを円周できたとのことである。しかし風雨で次第に土壁が崩れてきている。馬はムリでも人間なら城壁を登り、しばし砂漠の風と荒涼たる風景を楽しむことができるだろう。

グルドゥルスン・カラには悲しい物語が言い伝えられている。(続く)

画像は学長