チェンライの市場から

「市場に並べられた商品からその国の生活がわかる」と言われます。当ブログを通じてチェンライに暮らす人々の生活を知って頂きたいと思います。 チェンライに来たのは2009年から、介護ロングステイは2018年8月母の死去で終わりとなり、一人で新しい生活を始めました。

白人の横暴 2

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白人の横暴 その2

1545年、ボリビアポトシで発見された大銀山では、採掘のためにインディオたちがかき集められた。毎日のように起こる事故と、水銀中毒のために、徴用されたインディオの10人に7人は二度と故郷の地を踏むことができず、ここで斃死した人は数百万人に上る。

ラテンアメリカの人口は大航海時代以前、7千万人と推定されているが、スペイン人の入植後、わずか1世紀で350万人に激減してしまった。病気感染と殺戮のためだ。

また、労働力として不適とみなされたアメリカンインディアン、オーストラリアのアボリジニーは山犬を撃ち殺すように殺された。ニューサウスウエールズ州の国会図書館所蔵の日記には『一九二八年、今日の収穫、ウサギとアボリジニ27人・・・・」という記述があるという。20世紀の話だ。

アメリカの子供たちは1620年にメイフラワー号に乗ってイギリスから100人ほどの清教徒アメリカに渡ってきたことを習う。彼らは11月の半ばに現在のマサチューセッツの郊外に上陸した。ここの冬は雪が多く、マイナス20度近くまで気温が下がる。もしインディアンたちが持てる力のすべてを傾けて助けてやらなかったら、彼らピルグリムファーザーズは全員餓死、凍死していただろう。それなのに、その半世紀後にはこの地にインディアンは一人もいなくなっていた。射殺され、撲殺され、病気をうつされ、更には追い払われてしまったからだ。200万人以上いたというアメリカンインディアンは20世紀初頭には25万人までに人口が減っている。

アフリカ(奴隷)→アメリカ(綿花)→イギリス(綿布)→アフリカの大西洋の三角貿易システムがアジアでも起こった。17世紀半ばに東インド会社からイギリス国王チャールス2世に献上された茶は瞬く間にイギリスの上流階級に広まった。支那からの茶の輸入額はうなぎのぼりとなり、1720年頃には、イギリスのお茶の需要は、絹と木綿を抜くほどになった。

イギリスは支那から茶を輸入したが、支那に輸出するものがない。そこで東インド会社はインドで栽培させたアヘンを支那に売り、そして支那から茶を買い、インドにはイギリスの工業製品を売り込むという三角貿易システムを考え出した。これにより東インド会社は200年に及ぶ中国貿易で初めて黒字を達成した。

アヘン貿易は利益の上がるビジネスであったから、イギリスばかりでなくフランス、アメリカも参入し、支那をアヘン漬けにした。一方、中毒患者の激増に手を焼いた清国政府は、度々アヘン禁止令を出したが効果はなかった。1839年、業を煮やした清国の官僚がイギリスの商務監督官を監禁し、アヘン2万箱を海洋投棄処分にした。するとイギリスはこれを口実にアヘン戦争を開始する。イギリスの近代兵器の前に清国は敗れ、屈辱的な南京条約を結び、多額の賠償金と香港の割譲、アヘンの自由貿易を認めた。これ以降、列強による事実上の支那植民地化が始まる。

麻薬を売りつけ、相手が嫌がると暴力に訴えるというのはまさにヤクザのやり方そのものだ。

アヘン戦争が起こったのが1840年、そしてペリー提督に率いられた4隻のアメリカ軍艦が浦賀沖に現われたのが1853年。当時の幕府は長崎出島のオランダ商館長から世界情勢、黒船の来航予定など驚くべきほど詳細な情報を得ていた。とりあえず交易をしましょう、とにこやかに持ちかけてあっという間に植民地にしてしまう、そういった欧米列強の悪辣な手口を熟知していたので、日本は実は開国などしたくなかった。

しかし、アメリカの帆装蒸気艦ポウタハン、サスケハナなどから繰り出す10インチ砲、32ポンド砲の射程距離は実に3000メートル、お台場にしつらえられた日本のカノン砲の射程距離はわずか500メートル、蒸気艦には届かない。江戸湾に侵入した蒸気艦が、もし砲撃を開始すれば江戸城は壊滅し、江戸市内は火の海になる。

日本も欧米の武力の前に屈服せざるを得なかった。そしていやいやながら1854年、200年以上続いた鎖国政策を改めて、日米和親条約を締結し、開国に踏み切った。
(続く)

画像はクイックルバザールから