チェンライの市場から

「市場に並べられた商品からその国の生活がわかる」と言われます。当ブログを通じてチェンライに暮らす人々の生活を知って頂きたいと思います。 チェンライに来たのは2009年から、介護ロングステイは2018年8月母の死去で終わりとなり、一人で新しい生活を始めました。

白人の横暴 1

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白人の横暴 その1

日本がどうして開国し、どうして有色人種でありながら工業化に成功し、また大東亜戦争でコテンパンにやられたあと、どうして見事復興を遂げたのかという質問に答える前に、大航海時代以降の西欧人の動きを追ってみよう。

大航海時代」(Grand Voyage Era)、いかにも勇ましくロマンチックな響きを持つ。15世紀にポルトガルはアフリカの喜望峰を回ってインドに到達し、マカオに拠点を作った。スペインはコロンブスの西回りにインドに達しようとするインディアス事業を採用し、イスパニューラ諸島にたどり着く。このあと、オランダ、イギリス、フランスとヨーロッパ諸国の世界進出が続いた。

ヨーロッパ人が全世界に進出していった本来の動機はなんだったのだろう。ある人は「知識欲と探検への情熱」であったと言う。またある人は「欧州の優れた文明を未開人に教えるため」という。あるいは「キリスト教を布教して異教徒の魂を救済するため」であったという。

原久子氏はその著書「驕れる白人と戦うための日本近代史」で、それらはすべてお伽話で、現実は「すべて欲得からだった」と言い切っている。

もう皆さんは何故コロンブスが命を懸けてインド航路発見のため大西洋を渡ったか知っているね。そう、ペストの特効薬、胡椒をアラブ商人からではなく、アジアから直接、安価に手に入れるためだった。
http://blogs.yahoo.co.jp/uzbekistan24/20496555.html(脱線授業)

14,5世紀のアジアには胡椒を始めとする香辛料、絹、木綿、砂糖、染料、真珠、宝石、珊瑚、陶磁器などヨーロッパが欲しがるものがすべてあった。ところが当時のヨーロッパは寒冷な貧しい地方で、輸出できるものといったら毛皮、質の悪い毛織物、そして白人奴隷くらいのものだった。ヨーロッパの欲しがるものはすべてアジアにあり、アジアの欲しがるものはヨーロッパにはなかった。

インド洋になだれ込んだポルトガル人は何世紀も平和に交易をしていたアラブ商人の船を見つけると片っ端から攻撃し、沈めてまわった。当時のポルトガル帆船は帆が複雑になっており運動性能に優れ、大砲の威力もアラブ商船を上回っていた。欧米人の書いた歴史書にはアラブ人がアジアとのビジネスから手を引いたので、とさらりと書いているが、実際は殺すために殺してまわったのである。20年もしないうちにインド洋から船乗りシンド・バットが乗った商船は消えてしまった。アラブ商人をポルトガルが駆逐するとスペイン、オランダ、イギリス、フランスがインド洋を押し渡ってアジアに進出してきた。お互い殺し合いを続けながら、である。


こうしてヨーロッパは地球の陸地のわずか3%を占めるに過ぎないのに、1800年には全陸地の35%を支配した。そして1914年には西欧諸国の支配する陸地は全陸地の85%に達した。

インドから持ち込まれた綿布は17世紀末のヨーロッパに衣料革命をもたらす。軽く、仕上げが自由、選択しても色落ちしない。価格も毛織物の3分の1だったと言われる。木綿のシャツ、ネクタイ、エプロン、下着、寝巻き、ハンカチなどが大流行した。イギリスはインドに支払う金銀の流出に悩まされる。15世紀の対アジア貿易と同じことが起こったわけだ。イギリスがこの赤字貿易から脱するのは何とかインド木綿に対抗できるようにと発明されたミュール綿糸紡績機と蒸気機関の登場を待たなければならなかった。産業革命とは、まさにインド木綿のコピー商品を作ろうということから始まったのである。

東インド会社はこうしてインド繊維産業の手工業をつぶし、農民に綿花以外の作物を作ることを禁じ、従わない農民の土地は「合法的」に東インド会社のものとなった。こうしてインドから安価な原料供給を受け、同時にインドはイギリスの綿製品の一大市場となった。見事な搾取システムだ。

アメリカで綿花栽培が始まると大量の奴隷をアフリカから調達し、アメリカに売り、アメリカから綿花を輸入し、イギリスで綿布にしてアフリカやアジアに売りさばくという「大西洋の三角貿易システム」が成立した。

奴隷貿易は歴史的に西欧人の得意とするところだ。アフリカからアメリカに運ばれた黒人奴隷は数千万人に上るといわれている。そしてそのうち3分の2は劣悪な輸送条件下で死亡し、ゴミのように大西洋に投げ捨てられた。(続く)

画像はクイックルバザールから