チェンライの市場から

「市場に並べられた商品からその国の生活がわかる」と言われます。当ブログを通じてチェンライに暮らす人々の生活を知って頂きたいと思います。 チェンライに来たのは2009年から、介護ロングステイは2018年8月母の死去で終わりとなり、一人で新しい生活を始めました。

お稽古事

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お稽古事

若い頃、テニスは上流階級やみやびな方たちのスポーツであって、自分のような庶民には縁がないと思っていた。テニス、軽井沢、別荘、お金持ちのイメージだ。今上陛下が美智子皇后陛下とお知り合いになられたのもテニスを通じて、であったと記憶している。

まだ若手サラリーマンであった時、イランの石油化学プラント建設のプロジェクトに参加した。丁度イラン革命の真っ最中、自分のイラン赴任中にシャー(王様)が国外脱出し、人民の歓呼の声に迎えられて、ホメイニ師が凱旋帰国してきた。危険ということで外出は許されず、ただサイト(建設現場)とキャンプ(飯場)を往復するだけの毎日だった。従ってやることがない。幸いキャンプの中にテニスコートがあり、ラケットを譲ってくれる人があったので30の手習いでテニスを始めることにした。テニスは上級者、中級者、初級者に分かれ、上級者が丁寧な初心者講習をしてくれた。こういうところが日本人社会のいいところだろう。

することもないので毎日勤務が終わるとコートへ飛び出す。あのころの日記を見てみると37日間連続でコートに出ていた。また少しでも上手になりたいので、朝晩素振りなどをした覚えもある。

これだけ一生懸命やれば多少はラケットにボールが当たるようになってくる。その結果、バンダルホメイニの日本人キャンプで行われた最後のテニス大会、初心者の部で優勝することができた。イランで一番いい思い出の一つである。ただし、革命勃発で雪崩を打って日本人がイラン脱出を図っていたさなかの大会であり、エントリーしたのがわずか2組、だから一回勝てば優勝だったのだが、優勝は優勝。カップに名前の入ったリボンをつけてもらったことを今でも鮮やかに覚えている。

会社が芝公園にあり、時折、通勤コースを渋谷まで歩いて運動不足を補っていた。麻布の仙台坂を上がって麻布高校に向かう途中に、有栖川公園の裏手になるのだが、ローンテニスクラブがあった。このテニスクラブは皇太子時代の今上陛下と美智子皇后陛下が人目を偲んでデートを重ねられた由緒あるクラブだ。周りは各国の大使館が軒を連ねている。やはり上流階級のスポーツかなあ、とラケットを持つ白人女性や高級外車を横目に通り過ぎていたものだ。

というわけでイランから足掛け30年、テニスとはほとんど縁がなかった。ところがタシケントへ来て誘ってくれる人あり、ラケットを融通してくれるありといい人との出会いで、テニスを再開することになった。日曜の15時から2時間、ユニサバードのテレビ塔下のインドアテニスコートに行って汗を流すのが習慣になった。

メンバーはJICA関係者、商社、大使館員など数名から多くて10名というところ。20代の隊員から60過ぎの専門家まで様々、概ね年に比例して上手である。ずっとやっていなかったので、最初は空振りしたり、ホームランと皆さんにご迷惑をかけたが、半年もすると初心者大会優勝の実力が出てきた。ダブルスを組んでもそれほどいやな顔をされない。(と思っているのは本人だけか・・・)

コートの使用料は1面1時間で1万2千スムだ。今年の7月までは1万スム、去年の12月までは1時間7千スム、春は5千スムであったことを考えるとインフレが進んでいる。でも2時間楽しんで一人頭、300円から400円であれば、まあまあか。週1回では物足らず、プロテニスプレーヤーについて習っている人もいる。コーチ料1時間1万スム(1000円弱)であるが、ランクインしたこともある美人で、教え方も上手との評判。確かに習っている人はぐんぐん上手くなっている。

テニスに限らず、お稽古事に励む人は多い。ロシア語、社交ダンス、バレエ(白鳥の湖などの)、楽器等々、月謝は日本に比べれば10分の1以下だろう。ロシア語の個人教授で1時間5ドルが相場。他も大同小異。バレエや楽器にしてもナボイ劇場の現役プロが手ほどきしてくれる。教えるほうのレベルは高い。

というわけで、知合いで多忙な本務をこなしつつ、テニス、オーボエ、ロシア語を習い、その合間にジムで汗を流している人がいる。ある大学の名誉教授であるが、日本の小学生よりもお稽古事に忙しく、小学生のように活き活きしている。青春真っ盛りと生活を満喫している彼を見ると、自分や隊員のほうが年寄りに思える。若さとはなんだろうと考えてしまう。