チェンライの市場から

「市場に並べられた商品からその国の生活がわかる」と言われます。当ブログを通じてチェンライに暮らす人々の生活を知って頂きたいと思います。 チェンライに来たのは2009年から、介護ロングステイは2018年8月母の死去で終わりとなり、一人で新しい生活を始めました。

ナボイ市郊外(6)

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サルミッシュ渓谷の岩絵 その6

バスを降りると両側に山の稜線がみえ、黒い花崗岩がごつごつと突き出している。日本の山で2000メートルを越えるところではこんな風景が見られる。資料によるとサルミッシュ渓谷は海抜900メートルくらいであるが、荒涼とした感じを受けるのは、冬は零下10度、夏は50度を越える過酷な気象条件化にあるからだろう。それでも潅木に混じって高山植物のような可憐な草花がところどころに生えており、谷を渡る風は心地よい。山と山のあいだには小川が流れており、渓流の下流部は少し開けた平地になっている。

20世紀初頭のサルミッシュ渓谷は太陽が見えないほど鬱蒼とした森林が生い茂り、渓流は人が泳げるほど深く、当時ここを訪れた生物学者ポダノフは、渓流内に泳ぐ大きな魚の群れに大変驚いたと著書に記している。森の恵みに育まれて幾十世紀、先史時代からの歴史も、消え去るのはあっけなかった。
20世紀初めに上流部で発見された金の発掘のために、あるいは労働者の生活用燃料として古木は切り倒され、渓谷は急速に砂漠化していった。渓谷内に1930年代まであった3つの集落の住民はすべてザラフシャン川流域に強制移住させられた。水の流れもほとんど途絶え、繰り返される春の洪水で岩と粘土と砂の露出した乾いた地面が残るだけとなった。

一度自然を破壊したらもう戻ることはない、感傷にとらわれながら山道を登っていった。ヌラリー君が指差す方向を見ると、垂直に切り立った岩の表面に、10センチくらいであろうか、牛の姿が彫りこまれている。これが本物の岩絵だ、と興奮する。他にも羊、犬、人間などはっきり見える。数千年前の人がシリコンを利用して黒く、滑らかな花崗岩に刻みつけたものだ。
博物館の資料、写真では見たことがあるが、本物は躍動感が感じられる。踊る人物像はどこかユーモラスである。興奮して写真を取り捲る自分がおかしかったのだろう、ヌラリー君はホラ、あそこにも、そこにも、と岩絵を指し示す。そのたびにピョンピョン飛び跳ね、岩に取り付いて写真を撮り、撫でて(本当はまずいかもしれない)、新石器時代の人の息吹を実感しようと試みた。

馬に乗り弓を引く人の岩絵があった。ここでレポーターは館長にマイクを向け、インタビューを始めた。アムール・チムール像が7千年前に描かれていたとは全くの驚きです、などとやっているのだろうか。

ヌラリー君が「ブルース・リー」という胸板の厚い人物像を指差した。15メートルほど上の切り立った岩に彫りこまれている。登る道はトゲトゲの潅木で封鎖されていたが、その人物像を接写したいがために岩登りを始めた。垂直にいくつもの岩が突き出したガレ場である。

岩に取り付いて岩絵のところに着き、下を見て足がすくんだ。(写真)全くの垂直だ。取っ掛かりも引っかかりもない。一緒に登ってきた通訳のデリジョ君が、先生、どうやって降りればいいのですか、と泣き顔で言う。ヌラリー君も少し上に上っていいルートがないか探していたがあきらめた。同じ途を引き返すしかない。

ここから落下したら、死なないまでも鋭利に突き出した岩で体はギジギジになり、骨折しまくりになるだろう。包帯グルグル巻きの自分を苦虫つぶしたような顔で見下ろしているJICA調整員を想像した時、転げ落ちる可能性は80%と恐怖心が湧き上がった。でも降りなければならない。下では館長やレポーターが心配そうに見上げている。

まずデリジョ君に「今度来るときはロープが必要だね」と声をかけ、落ち着かせる。ロッククライミングの経験はないが、3点確保で下を見ずにゆっくり降りる。途中で先生、どうぞ、とデリジョ君が手を伸ばすが、下りられる道幅が20センチ四方だ。勢いよく飛び降りたら二人とももんどりうって落下する。手をがっちり握りあっての「ファイトー、イッパァーツ」はまず期待できない。それにさっき呑んだのはリポビタンDでなくウォッカだ。やっと20歳を過ぎたばかりという彼を道連れにはできない。ソロリ、ソロリと慎重に降りた。

安全に下まで下りたときは冷や汗が出て暫らく立てなかった。岩絵の写真は撮ったが恐怖のためか少し斜めになっていた。この写真が形見にならなくて本当によかった。(まだ続く)