チェンライの市場から

「市場に並べられた商品からその国の生活がわかる」と言われます。当ブログを通じてチェンライに暮らす人々の生活を知って頂きたいと思います。 チェンライに来たのは2009年から、介護ロングステイは2018年8月母の死去で終わりとなり、一人で新しい生活を始めました。

ナボイ市郊外(5)

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サルミッシュ渓谷の岩絵 その5

待っている間、博物館職員のヌラ・リー君に、片言英語とロシア語指差し会話帳で話を聞く。ブルース・リーの息子と自分で言う28歳のマッチョで愉快な青年だ。ナボイ市から北40キロにあるサルミッシュ渓谷まで、タクシーで片道3000スムから4000スムとのこと。やはり今朝のホテルでの話、片道2万スムは高すぎる。これからテレビの取材があり、日本についてインタビューされるぞ、などと言っている。そのうちに博物館にマイクを持ったレポーターとビデオカメラを担いだカメラマンが現れた。館長の紹介で挨拶を交わすが、言葉が通じないので握手だけに終わる。なぜテレビの取材があり、なぜ自分が出演しなければならないのか皆目見当がつかない。


館長の電話から2時間にして、イケメンの青年が乗り合いバスから降りてきた。神経質そうに辞書をパラパラめくっている。デリジョ君といってサマルカンド外国語大学の3年生、大学で期末テストを受けていたら、教授からもういいからすぐナボイの博物館へ行って日本人の通訳をしろ、といわれ、とにかく来ましたと言う。教授と館長は友人で、言葉のできない自分のために急遽、学生を通訳として派遣してくれたようだ。

それにしても言葉が通じるということは素晴らしい。デリジョ君の通訳で全体像がわかってきた。ローカルのナボイテレビがアムール・チムール大王の特別番組を作っている。そこでサルミッシュ渓谷の新石器時代の岩絵に大王と思しき騎馬武者が彫り込まれているので、それを取材する。その取材に自分を同行させてくれる、とこういうわけだ。新石器時代の岩絵にアムール・チムールの姿が・・・なんてまるで「発掘あるある大事典」じゃないかと思ったが、とにかくサルミッシュにいける、岩絵が見られる、と有頂天になった。やった。
レポーターと館長がぼそぼそ相談して、ついては予算縮小の折、往復の交通費、1万スムをお支払いいただけないだろうか、と切り出した。岩絵が見られるのだから2万だろうが3万だろうが喜んで、と応じる。

博物館前で適当なミニバスを止め、レポーター、カメラマン、館長、ヌラ・リー君、デリジョ君、自分、ドライバーとその助手の少年、計8名はサルミッシュに向けて出発した。

昼を過ぎていたので、途中で車を止めて館長がいろいろと食料を買い込む。バスはキジルクム砂漠を貫く1本道をサルミッシュ渓谷へとひた走る。季節は春とあって砂漠は緑の草に覆われている。あと一月もすれば大地は枯れ草色に変わるだろう。

バスはちょっと横道に入り、そこで降りて昼食をとる。先ほど買ったノン、サムサ、ニンジンのサラダ、それにビールとウォッカ・・・・(写真)
草原に座ると、館長もレポーターも湯飲みでウォッカを飲み始める。カメラマンもこれから仕事というのに大丈夫だろうかと思うくらいグビグビとウォッカをあおっている。朝飯を食べていないし、昼から飲むのはきついので、ごく少量、湯飲みに半分くらいで勘弁してもらう。
草原に春のそよ風が吹き、呑まなくても気分は最高。まるでピクニック気分だが本番はこれからと気分は高揚していく。

草原に土器のかけらがいくつも落ちている。館長に聞いてみたら10世紀ごろの陶片だという。今は曠野だが1000年位前には人が住み、農耕が行われていたようだ。記念に2,3個、ポケットに入れた。陶片を探しているとき、針のようなトゲトゲの草を食べている亀を発見した。大きさは20センチくらい。デリジョ君たちに聞いてみると、食用になり、特にひざが痛いときに食べると特効があるそうだ。自分が第一発見者であれば、「ナボイ陸スッポン」とでも名づけたと思う。首や手足を引っ込めていたが土に戻すとかなりの早足で逃げていった。

渓谷の入り口はピオニールの青少年用キャンプサイトになっている。道路は高いフェンスでさえぎられており、警官の詰め所があった。館長が降りて警官たちと抱擁を繰り返し、それだけでゲートが開いた。バスはキャンプ地を通り抜けてサルミッシュ渓谷の奥へと入っていった。(続く)