チェンライの市場から

「市場に並べられた商品からその国の生活がわかる」と言われます。当ブログを通じてチェンライに暮らす人々の生活を知って頂きたいと思います。 チェンライに来たのは2009年から、介護ロングステイは2018年8月母の死去で終わりとなり、一人で新しい生活を始めました。

ロシア撃破にモヤシの力

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ロシア撃破にモヤシの力

最近、ペット代わりにモヤシを飼っている(という言い方はおかしいが)。数日に一度収穫し、味噌汁、スープ、卵焼きに入れたりして楽しんでいる。柔らかく、甘く、モヤシがこんなに美味しいものとは知らなかった。小ぶりでタイの汁麺、クイティオ・ナームに入っているモヤシにそっくりである。

モヤシをフリー百科事典ウィキペディアで調べてみた。

(引用開始)  食用として豆、芽と茎を食べる野菜であり、古代中国の時代から食べられているとされる。原料の豆の種類はブラックマッペ、緑豆、大豆の三種がある。豆を流水で10分ほど洗い、豆の量の3倍の水に一晩漬けておき、湯に15分ほど浸漬し真菌などを殺菌、通気性のよい薄暗い部屋で水を取り替えながら数日~10日程度で発芽する。早く成長するため、安価な値段で取引される。

ブラックマッペは、戦後に、タイ、ミャンマーからの輸入が始まり、 中華料理の普及とともに昭和40年(1965年)頃から増加した。以後、昭和59年(1985年)代近くになるとスーパーマーケットに定着し、ラーメンや鉄板焼き(ジンギスカン鍋)の需要から人気は急激に高まった。手軽に購入でき多様に調理が出来るブラックマッペもやしの普及にしたがい、生産コストの高い大豆もやしは衰退した。 現在の「もやし」の代表「緑豆もやし」は昭和62年(1987年)以降普及したもので、食味と食感が好まれて急激に普及した。このほか、アルファルファ(ムラサキウマゴヤシ)やソバのモヤシもあり、サラダなどに使われている。豆苗、カイワレ大根も豆の発芽した状態と考えればもやしに近い。

新芽野菜はスプラウトとも呼ばれる。ブラックマッペ、緑豆、大豆のもやしを含める場合と含めない場合があり、また発芽後、最初の葉である双葉が開いた状態をスプラウトと呼ぶのだとする説もある。関東では緑豆・大豆を使った、色が白く太めでシャキシャキ感のあるものが好まれる。関西ではブラックマッペを原料とし、どちらかといえば細くて長く、もやし特有の風味があるものが好まれるようである。

中華料理での炒め物、韓国料理での漬物(キムチ・ナムル)に多用されるが、これらで使われるのは大豆による「豆もやし」が一般的である。沖縄ではマーミナーと呼ばれ、チャンプルー(炒め物)によく使われる。
日の光に晒されることなく成長する様とその姿から転じて、肉体的に虚弱な人や痩せている人、屋外遊びをせず日焼けしていない児童などを指してモヤシ、モヤシっ子、モヤシのようだと表現することがある。(引用終わり)

自分の育てているのはブラックマッペのモヤシである。ウズベクではこの豆をモーシュといい、スープやプロフに入れて食べる。モヤシにして食べることは皆無、とのこと。

モヤシッ子などと揶揄されるが、モヤシが日露戦争で重要な役割を果たしたことはあまり知られていない。
日露戦争分水嶺となったのは旅順攻防戦である。この要塞を巡る戦闘でロシア軍は長い篭城生活で生野菜が無くなり、ビタミンC不足から壊血病患者が続出し、戦力の低下を招いていた。壊血病には野菜や果物によるビタミンの補給が有効であるが、ロシアには豆からモヤシを作って食べる習慣がない。このため、大量の大豆が要塞に備蓄されていたにもかかわらず、モヤシを作ることを思いつかなかったのである。日本軍は飯ごうを逆さまにして大豆もやしをつくってビタミンCなどを補給していた。もしロシア軍が同じようにモヤシを食べていたら旅順攻防戦はどうなったかわからない。

もし日露戦争で日本が負けていたら、あれから少なくとも100年間は、我々日本人を含む有色人種は白人の暴政の下で呻吟しなければならなかったであろう。ネールもナセルもケマル・アタチュルク孫文も立ち上がることはなかったかもしれない。

アジア、アフリカ解放の陰の功労者(功労野菜というべきか)、モヤシに注ぐ愛情は深まるばかりである。

ウ国で出会ったKatsuraさん(女性)がウ国の写真を提供してくれました。
いい写真が沢山ありますので是非ご覧下さい。
http://www.flickr.com/photos/kaymiz/sets/72157594293562049/show/