チェンライの市場から

「市場に並べられた商品からその国の生活がわかる」と言われます。当ブログを通じてチェンライに暮らす人々の生活を知って頂きたいと思います。 チェンライに来たのは2009年から、介護ロングステイは2018年8月母の死去で終わりとなり、一人で新しい生活を始めました。

日本紹介巡回展と人種差別

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日本紹介巡回展と人種差別

10月の下旬、バンク・カレッジで日本紹介展が開催された。これは8月に海外青年協力隊員が主体となり日本センターで開催された展示会がウ国6都市13箇所を巡回しているものである。

展示内容は広島、長崎の原爆ポスターの展示、日本人抑留者の記憶、瓦礫の中から立ち上がった戦後復興の記憶等の写真展示、書道、茶道(写真)の体験コーナー、日本の雑誌、おもちゃ、団扇、扇子などの展示等盛りだくさんの内容で、日本をただ技術だけの国、遠い国と思っているこちらの生徒にとっては大変興味深いものであったようだ。

会場はカレッジの玄関ホールを入ってすぐ左にある大講堂だったので、登校してきた生徒にはよく目に付く。恐らく1000人以上の生徒、教員が参観したものと思われる。

悲惨な被爆者の写真や若くして原爆病に倒れたサダコの一生を綴った説明書に見入って、隊員の指導で「平和の折鶴」を折る生徒も多く見られた。

ポスター展示の半分以上が原爆関係で占められるところから、自分の教えているクラスだけであるが、原爆投下の理由と白人の人種差別の歴史について生徒に話をした。

喜望峰を回ってきたヨーロッパ人がシンドバットに代表されるアラビア商人をアジアから駆逐した歴史、これは商船殲滅による殺戮でしかなかったこと。1620年にイギリスからメイフラワー号に乗って約100名の清教徒たちがアメリカにやってきた。11月の半ばに今のマサチューセッツ近郊に上陸し、すぐに最初の冬を過ごすことになったが、この地は雪が多く、冬は厳しい寒さに襲われる。もし、インディアンが持てる力の全てを尽くして彼らを助けなかったならばピルグリムファーザーズは最初の年を越すことができなかった。それなのに半世紀あとにはこの地にインディアンは一人もいなかった。射殺され、撲殺され、あるいは追い払われたのだ。当時100万人以上と推定されるアメリカインディアンは19世紀には10分の1以下に人口を減らしている。

中央アメリカの人口は7千万人から9千万人だったと推定されているが、スペイン人の侵入後、1世紀で350万人に激減している。アフリカからアメリカ大陸に運ばれた黒人奴隷は数千万人といわれるが、その3分の2は航海途上で死亡し、大西洋に投げ捨てられた。労働力として不適なオーストラリアのアボリジニタスマニア狼と同じように猟の獲物として撃ち殺された。アヘンの密貿易に敢然と立ち向かった清に対してアヘン戦争を仕掛け、莫大な賠償金と香港を獲得する。

こうした白人の横暴さを知っていた日本は開国したくなかったが、ペリー提督の蒸気船に備えられている大砲の射程距離3千米に対して幕府の大砲の射程距離5百米という軍事力の差に屈せざるを得なかった。(江戸湾に侵入されて砲弾を打ちかけられたら、江戸城は壊滅する)

19世紀半ば、白人国以外で産業革命に成功する国はないと信じられていた。また白人と有色人種、有色人種とチンパンジーの比較では、白人と有色人種との懸隔のほうが大きいとされていた。
そういった人種偏見が当たり前とされていた時代、日本は必死になって先進白人国に追いつこうとがんばってきた。その結果、太平洋を挟んで、正確には台湾とフィリピンの海峡を挟んで植民地帝国の日米が対峙することとなった。トーナメントで勝ち上がり、決勝を争うようなもので避けられる戦いではなかった。日本は米国を含む連合国に対し、他国の軍事援助を一切受けずに、貧弱な国力の全てを挙げて、3年半の長きに亘って戦った。

原爆はもう勝敗が見えていた1945年の8月に、広島、長崎に相次いで投下された。ハーグの戦時国際法に違反した非戦闘員、女性、子供、老人を殺戮する非人道的なものだった。これには白人の有色人種差別の意識があってのことである。大東亜戦争の原因の一つが排日移民法にあることも知っておいていいだろう。

なお、真珠湾攻撃で死亡したハワイの民間人は44名、負傷者35名、多くは米軍の対空砲の砲弾の落下によるものといわれる。これは帝国海軍機の空襲は軍事施設だけを狙ったものだからだ。映画「パールハーバー」や「地上より永遠に」でゼロ戦が民間人を狙って機銃掃射をする場面があるがあれはウソ。ビンボーな日本帝国海軍にとって銃弾は貴重品で、とても民間人攻撃に使う余裕はなかった・・・・云々、というわけで白人の人種差別の発露である原爆の悲惨さを今度の巡回展でよく見てください。

こんな授業を日本でやったら反発する人がいるかもしれないが、ここウ国の純真な生徒たちは食い入るような眼で真剣に聞き入ってくれた。