チェンライの市場から

「市場に並べられた商品からその国の生活がわかる」と言われます。当ブログを通じてチェンライに暮らす人々の生活を知って頂きたいと思います。 チェンライに来たのは2009年から、介護ロングステイは2018年8月母の死去で終わりとなり、一人で新しい生活を始めました。

ブハラ、ヒバ 3

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任国内旅行(ブハラ、ヒバ)3

マコギ・アッタリ・モスク
ブハラ旧市街で現存する最古のモスクは12世紀の建築になるマコギ・アッタリ・モスクである。1934年にロシアの考古学者に16世紀の建物の土台の中から発見された。マゴキは、「穴の中」という意味だ。周囲を7メートルぐらい掘り下げ、周りの土をどけて、穴の中にすっぱり掘り出した状態になっている。だからこのモスクには、そのものずばりの名前がつけられている。モスクの下には6世紀のゾロアスター教の神殿があった。更に神殿の下はクシャナ朝の仏教寺院のあとが見つかっている。その後も焼失、破壊されては再建されていたらしい。宗教施設としてよほど風水がよかったのだろう。
内部を一部3メートルほど掘り下げて、各時代のレンガ基礎の変遷が見られるようになっていてなかなか興味深い。他のいくつかのモスクと同じく、入場料を取られるがJICAの身分証明書を見せると、料金が2分の1から3分の1に減額される。外人価格からウズベク人価格になるのだ。大変トクをした気になる。内部は絨毯博物館と土産店になっている。ブハラとトルクメンアルメニアのタイプの絨毯が展示されている。

イスラムの聖地、バハウッディーン・ナクシュバンド廟隊員のSさんの案内でブハラ市内から12租譟▲スリ・アリファン村にあるバハウッディーン・ナクシュバンド廟というイスラム教の聖地に行った。かつて中央アジアの人々の間では、ここへの巡礼はメッカへのそれと等しいとみなされていた。1544年にシャイバーニー朝のアブドゥル・アジス・ハーンにより立てられたハーンカー(修道場)を中心に2つのモスク、歴代ハーンや有力者の墓地からなる。

広い境内はきれいに整備され、女性用、男性用の礼拝所、宿泊所もある。願い事がかなうという巨大な桑の枯れ木には何人もの人が抱きついて、心願成就を願っていた。

また、願い事がかなうという聖水が蛇口から飲めるようになっていたので、備え付けの茶碗で2杯飲んだら、看護師のSさんに一応、生水ですからそれ以上は・・と止められた。礼拝所からモスクへ向かうアーケードにはブドウがたわわになっている。よくみるとブドウがそのまま乾燥して干しブドウになっているではないか。フェンスにちょっと足をかけてもいでみると形といい、味といいりっぱな干しブドウだ。係員が生のブドウを取っているのでSさんが一房下さいな、と頼んでくれた。もぐ時に熟れたブドウの粒がばらばらと落ちる。生ブドウもなかなかいける。生水飲んだり、洗っていないブドウ食べて大丈夫?とSさんが心配してくれる。「佳人薄命、才子多病」からは縁遠いのだろう。

そういえばタシケントで、新任SV歓迎会のあと、出席者の多くが原因不明の高熱でバタバタと倒れ、扁桃腺と耳下リンパ腺が腫れるという奇病にかかった。具合はどうですか、という電話が何本かもらったが、特に何もなかった。奇病体験者は棉摘みツアーのとき、私など汗でシーツがぐっしょり、ベットの端のほうで寝なけりゃならなかったのです、私など9度5分も熱が出てシャツを一晩3枚も取り替えました、などと病気自慢をし、全員、JICAの顧問医師に処方してもらった同じ薬をいっせいに飲むということでギルドの結束を高めあっていた。
実は私も歓迎会のあと、鼻水が出たんですが・・・、と言っても、へ、鼻水など、と皆から鼻で笑われる始末。年を取っているので病気の進行が遅く、来週あたりに熱が出るかも、と小さい声で言い訳をしたが、その後、体調には変化はない。

カガン日本人抑留者墓地(写真)
ブハラ市内から12キロ離れたカガンという町にロシア人の作った鉄道の駅がある。タシケントから鉄道で来る場合、ここがブハラへの入り口となる、
この駅から20分ほど歩いたところに日本人抑留者の墓地があることをS隊員から聞いていたので、案内してもらった。ガイドブックには載っていないが日本人には訪れてほしいところである。

カガンには抑留者のための病院があった。今は小学校になっている。そこを通りながら町外れの墓地に着く。ロシア人、ドイツ人など国別に区切られている墓地の一角に網フェンスで囲まれた日本人墓地があった。フェンスには鍵はなく入り口は針金で留められているだけだ。フェンスもところどころ誰かに持ち去られている。幅70センチ、長さ170センチほどのコンクリート板が100ほど整然と並んでいる。コンクリート表面から識別番号がかすかに読み取れる。コンクリートの質が悪いのか、板が粉々に砕けている墓もある。中山大使のころに整備されたというベンチは剥げ落ち、日本から送られた桜の木が植えられたという場所は、ここに以前は木が植えられていました、という痕跡の土台を残すだけだ。所々に乾燥しきったトゲトゲの草がある。荒れ果てて、長い間手入れされていないことが見て取れる。きれいに整備され、緑豊かなタシケントの日本人墓地とは大違いである。
日が大きく傾いて自分とS隊員の長い影が墓標にかかる。S隊員が途中で買ったミネラルウォターを慰霊碑にかける。夕日を右頬に感じながら、声を励まして般若心経をあげた。