チェンライの市場から

「市場に並べられた商品からその国の生活がわかる」と言われます。当ブログを通じてチェンライに暮らす人々の生活を知って頂きたいと思います。 チェンライに来たのは2009年から、介護ロングステイは2018年8月母の死去で終わりとなり、一人で新しい生活を始めました。

棉摘み 2

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棉摘み その2

「その1」でお知らせしたようにウズベキスタンの綿花収穫は人海戦術に頼っている。ウズベキスタンの原綿輸出量は米国についで世界第2位。米国では黒人奴隷による棉の手摘み作業が昔は行われていたが今は機械で収穫している。中国に原綿収穫機が売り込めるといい商売になるとある機械関係情報誌に載っていたが、世界の綿花収穫は機械を使用するのが一般的なようだ。ただし機械による原綿の収穫には昆虫、小石、棉殻などの不純物が混入し、お茶ではないがやはり高級品は手摘みに限るという人もいる。

ウズベキスタンでは9月15日から地方の学童、生徒、学生およびマハッラ(町内会組織)から動員された勤労奉仕部隊がいっせいに棉畑へ向かう。今年は綿花生産量376万6千トンと大豊作が予想されていて、これまで労働を免除されていた首都タシケントの学生、住民にも動員命令が下った。9月の中旬、バンク・カレッジで会議が開かれた。もしかするとバンク・カレッジの生徒も2ヶ月近くの「下放」に行く可能性があるという話だった。

もし生徒が9月、10月といなくなってしまい、11、12月は銀行実習ということになると、自分は来年まで開店休業、ウ国到着から約10ヶ月ほとんど無為徒食ということになってしまう。彼は何をやっているのだ、国費の無駄ではないか、という声が内外から澎湃として沸き起こることもないと思うが、赴任直後からまじめに勤務についている同僚シニアボランティアに顔向けができない。幸い、バンク・カレッジは今年創立10周年という記念すべき年であるから、というよくわからない理由で棉摘み下放を免れた。

それにしてもタシケントをはじめ、全国から300万人が動員されるという。10歳から14歳の学童生徒は朝から昼過ぎまで自宅から通える範囲の棉畑で2ヶ月近く働く。15歳以上の生徒、学生は地方の小学校などに合宿して朝8時から夕方6時まで、昼食時の休み1時間を除いて棉摘み作業を行う。一緒について行く先生たちは学生、生徒の食事をつくる。
ウ国では夏は40度以上に気温が上がり、日は刺すように厳しく、6-8月はとても授業にならない。そして毎年、実際は授業があるはずの9月15日から11月初めは授業ができない。それでなくてもまじめに勉強する意欲が殺がれることの多いこの国で、これでは学力がつくはずがない。ましてやこれまで「下放」を免れてきたタシケントの学生と毎年棉摘みにかり出される地方の学生との学力格差は開くばかりだ。

政府機関、会社にも政府から30名。50名といった動員命令が来る。男であれ、女であれ、年寄りであれ、丈夫であれ、病気がちであれ、動員される。ある団体職員は言う。もしこの労働を免れたかったら月5万スム支払って他の人を雇うしかない。でも5万スムは自分の月給の半額です・・・・
2月近くも労働者が多数抜かれて会社の業務がスムースに進むだろうか。

季節労働を終えて帰ってきた学生にもきつい試練が待ち受けている。「君はノルマの棉を摘むことができなかったそうじゃないか、だから遡ってスカラーシップを取り消す」都市居住者や学生のノルマは基本的に達成不可能な量に設定されており、先生や収穫検定人にしかるべき金額を包まなければ、義務違反として糾弾される仕組みになっているとフェルガナ通信は伝えている。

ソ連時代、党中央委員会は地方ごとに作るべき農産物、工業製品を決めていた。ウズベク地方はモスクワの命令により綿花のモノカルチャー生産地となった。1990年にウズベク地区の党書記を勤めていたカリモフ(現大統領)は学童、生徒、学生を恒常的に強制労働させる、こういったソ連体制を厳しく指弾し、独立すれば子供は綿花畑ではなく、学校に行って勉強できるようになるのだ、と言っていた。事実1991年に制定された法律では自発的でなければ、学生は棉摘みにいく必要はないことを定めている。

しかしそれから15年、毎年8月になると生徒、学生は医者の診断書(体が弱くて労働に耐えられない)を求めて走り回り、診断書が買えなかった学生は肉の缶詰(給食では食べられない)を買いに走るということが続いている。