脱線授業
というわけで、西回りインド航路を計画し、実行し、成功したコロンブスを世界初のベンチャー、そして彼のインディアス事業を応援したカスチリアのイザベラ女王を世界初のベンチャーキャピタルと呼ぶわけです。その後、新大陸からスペインに流れ込んだ金銀は、スペイン300年の栄光と繁栄を支えた。イザベラがコロンブスに出したのは3隻分の船と航海の代金だけですから、これは投資としてはまさに歴史的スーパーディールだったわけですね。
ところで、どうしてコロンブスは生命の危険も顧みずインドに行ったのでしょう。(キリスト教を広めるため、地球が丸いことを実証したかったから、お宝が欲しかったなどの答え・・)うーん、そういう理由もあったかもしれないが・・それではどうして金銀が欲しかったのだろう?
それは金銀で交換して欲しいものがあったから、その欲しいものを直接手に入れたかったからだ。その欲しいものとはスパイス、胡椒や丁子だった。それではどうして胡椒をそれほど欲しがったのだろうか。それは14,15世紀にヨーロッパで猛威を振るったペストと関係がある。ペストはもともと中国南部の風土病だったがチンギス汗の軍隊とともにヨーロッパにもたらされ、何度か大流行した。ペストでヨーロッパの当時の人口の3分の1が犠牲になったといわれている。そのペストの特効薬と信じられていたのが胡椒など、アジアからもたらされるスパイスだった。
スパイスをはじめ砂糖、木綿、絹、珊瑚、真珠、陶器などヨーロッパ人が欲しがるものはすべてアジアにあった。アジアの豊かな物産はイスラム商人の手によってヨーロッパにもたらされていた。ところが交易でそれらのものを手に入れようにも、ヨーロッパからアジアに輸出する物産は限られていた。当時、ヨーロッパは産業がなく、寒冷で貧しい地域だった。貧しく、暗いヨーロッパ、明るく豊穣なアジアとそれを仲介するイスラム世界、アラビアンナイトで船乗りシンドバッドが活躍する世界です。
さて、ヨーロッパではアジアの豊かな物産、とくに、ペストの特効薬、スパイスを手に入れるために何を輸出したか、ほとんどなかったんですね。毛皮、毛織物、こういったものは暖かいアラビアやアジアではそれほど大きな需要がない。もちろんゴールド(金)はイスラム商人も喜びました。ヨーロッパの金はどんどんイスラム側に流れ出していった。金の保有量には限りがあるから、こういったことは長く続かない。
そこでヨーロッパ人がイスラム世界に輸出したものは何か。わかる人はいるかな?
(木綿、木材、美術品などの声が上がる)
それは奴隷です。黒人奴隷じゃないよ。白人奴隷だ。イタリア商人やバイキングはスラブ地方やアドリア海沿岸を襲っては奴隷を狩り集めてイスラム商人に売った。スペインやフランスの軍隊がイタリアの町を攻めて、男は皆殺し、女は奴隷にしてイスラムに売ったという記録もある。16世紀初頭、北アフリカのチュニスには3万5千名の白人奴隷がいた。
そういえばウズベキスタンのホラズム地方に今でもウルゲンチという町がある。ウルゲンチには大きな奴隷市場があったそうだ。(教室内はしらなんだ、まじかよ、といった声で騒然となる)英語で奴隷のことをスレイブと言うよね。スレイブはスラブが語源となっている。スラブ地方の白人が多く奴隷として取引されたからだ。
1492年のコロンブスの西回り航路発見(スペインがイスラムをイベリア半島から追い落としたのもこの年だ)と、東回り航路によるポルトガル商人のアジア進出によって、ヨーロッパとイスラムの力関係は逆転した。1492年がヨーロッパとイスラムにとってターニングポイントとなった年、といえるかもしれないね。
新大陸から流れ込む銀でスペインは何でも買えたし、まずポルトガル、遅れてやってきたオランダ、イギリス、フランスの武装商船はアジアの海でイスラム船隊を見つけ次第撃滅し、アジア貿易を手中に収めた。西欧人の書いた歴史の本にはイスラム商人に替わってヨーロッパ人がアジアの貿易に乗り出した、とさらりと書いてあるが、殺して、殺して、殺しまくったというのが真相だ。これは白人奴隷を売らなければならなかったヨーロッパ人の苛立ちと怒りが噴出したものといえる。それ以来、イスラムはここ500年間、西欧に負け続けている。
イスラムのテロリズムが今、問題になっているが、500年間やられ続けたイスラムの苛立ちと怒りがその奥底にあるのかもしれないね。(テロリズムの発言にベク君が一瞬たじろいだが、何事もなかったようにウズベク語に訳していた)今日は脱線してグローバルな世界経済の話をしました。歴史にも経済にも波があります。悪いこともいいことも永久に続くことはないということを覚えておいて欲しいと思います。
今日はこれで終わり。