チェンライの市場から

「市場に並べられた商品からその国の生活がわかる」と言われます。当ブログを通じてチェンライに暮らす人々の生活を知って頂きたいと思います。 チェンライに来たのは2009年から、介護ロングステイは2018年8月母の死去で終わりとなり、一人で新しい生活を始めました。

タイ深南部、独立運動の背景

タイ深南部

深南部とアンダマン海

アダン諸島、リぺ島周辺、アダン島に日本軍がいたらしい

 

 

島の大通り

大麻の店もあった

リぺ島の浜辺

 

 

タイ深南部、独立運動の背景
■地名と位置
マレーシアのコタキナバル、同じボルネオ島にあるブルネイ国、再びコタキナバルに戻ってマレー半島を越えてアンダマン海ランカウイ島に行った。そのあとはマレーシア領を離れ、タイ領のリぺ島に渡った。ここからアンダマン海を北上していくつかの島を巡ってランタ島プーケット島を経て北タイに戻った。
その昔、仕事でマレーシアに行ったことがあるが、訪問都市はクアラルンプールだけだった。マレーシアがマレー半島ボルネオ島の2つの地域にあることはなんとなく知っていたが実際にコタに行って地図をしっかり見て本当に分かれているのだなと実感した。
アンダマン海の島々の位置関係も実際に訪れてみて初めて感じがつかめた。タイ領だから島の人々は当然タイ国籍、タイ人である。でも顔つきや服装はマレーシアやブルネイに近い。イスラム教の影響を受け女性の多くはヒジャブをかぶっていた。ブルネイと同じく酒、煙草厳禁の島もあった。アンダマン海の島と言ってもそれぞれ特色、歴史がある。

ある島のホテル敷地内でオオトカゲを見た。ヒジャブのお姐さんに「でっかいトカゲがいたよ」と話すと「あのトカゲ、タイ人は食べるのよ、私たちは食べないけど」と顔をしかめていた。タイ人は、と言ってもあなたもタイ人でしょうと思ったが黙っていた。バンコクやイサーンのタイ人と島のイスラム教タイ人が同じ国籍ではおかしいと思う人はいると思う。両者にはトカゲを巡る食文化以上の違いがある。

■歴史を異にする
アンダマン海の島々はタイ南部にある。「タイ深南部」と言われるナラティワート県、パッタニー県、ヤラー県にソンクラー県を加えた4県は、現在でもタイからの分離独立を図る武装闘争が盛んな地域である。特に2004年に燃え上がった暴動は、2014年までに死者6,000人、負傷者10,000人以上を出す東南アジア最悪の地域紛争になった。2025年現在、暴動は低調となっているが、外務省渡航情報を見るとナラティワート県,ヤラー県,パッタニー県及びソンクラー県の一部は危険レベル3(渡航中止勧告)が出ている。

もともとタイの深南部は、かつてイスラムのスルタンが支配するマレー人の王国「パタニ王国」の一部であった。パタニ王国の起源は1390年にまで遡ると言われている。マレー半島にアラブ商人がやってきてこの地域はイスラム化する。16、17世紀に黄金期を迎え、ポルトガル、オランダ、英国が商館を構え、日本の朱印船が到来し、日本人街もあったという。またラジャ・ウング女王(1624-1635)支配下パタニ王国山田長政が率いるアユタヤ王国軍と交戦している。

そもそも違う国だったし、宗教も言語も違っていた。パタニ王国は18世紀末にチャクリー朝(現バンコク王朝)のラーマ1世に征服され、小邦に分割支配される。1902年にはラーマ5世チュラーロンコーン王)のチャクリー改革の一環としてパタニ諸邦は中央政府の直接統治下に編入されたが、住民のイスラム意識が災いし、その後も暴動・反乱が絶えなかった。

旧パタニ領である深南部三県では、分離独立運動が盛んであるが、その大義名分は「パタニ王国再興」である。タイからの分離を志向するのは、単に宗教や民族の違いだけでなく、貧困と経済格差が大きいとされている。また国境を越えてサウジのワッハーブ派、アルカイーダ等、イスラム原理主義者、ジハード教育修了者浸透の影響もあり分離独立運動の収束の見込みは立っていない。

山田長政の後は旧日本軍
タイのイスラム教徒の割合は5%と言われているが深南部3県では約8割の人口がイスラム教徒である。アンダマン海に点在する島々の住民も大半はイスラム教だと思われる。
リぺ島はタイ南部のサトゥーン県に属しているがパタニ王国ではなく、ケダ王国に属していた。

リぺ島は19世紀末まで無人島だったが、20世紀初頭にチャオレイ、ジャワから渡ってきた海洋民族が住むようになった。リぺ島の向かいにアダン島がある。宿泊施設は2つだけという島である。リぺからロングテールボートで10分ほど。こんな離島に日本軍が駐留していたことをアンダマン海に浮かぶリペ島の土地問題(2):海民ウラク・ラウォイッの定住: (鈴木佑記 国士舘大学政経学部准教授)のレポートで知った。

島には英国軍がいて交戦があり、チャオレイも巻き込まれたという。アダン島の湾は当時「日本湾」と呼ばれていた。正直なところ、パタニ王国の歴史よりどうして日英両国がタイのモルジブというリぺ島周辺で交戦したのかのほうに興味あるのだが、如何せん、ほとんど関係資料を見つけられなかった。