

同じ場所から望遠で




少数海洋民族
■海の民の存在を知る
マレーシア領のランカウイ島からタイ領のリぺ島に上陸した。リぺ島のあと、アンダマン海を北上していくつかの島を訪れた。行くまでは殆ど知識のない場所ばかりだった。今は地球の歩き方、ロンリープラネットといったガイドブックの価値は格段に低下している。その代りがネットだ。行く先々の島の情報を収集するうちに、少数海洋民族、海の民の存在を知った。タイには海の民の3つの部族(クレン族、モーケン族、ウラック・ラウォイ)があり、タイ語でチャオレイと呼ばれている。チャオは人々を意味し、レイという言葉はタレーから来ている。タレーは水、この場合は海を表している。つまり、チャオレイは文字通り海の人々を意味する。
かつて、チャオレイがタイに定住する前、これらの海の人々は国籍を持たず、海上漁業民としてアンダマン海を回遊していた。英語ではこれらの人々をシー・ジプシー(海のジプシー)と呼ぶ。現在、チャオレイは1万2千人いるという。
チャオレイは北タイの少数山岳民族、アカ族、ラフ族と同じく文字を持たない。しかし口承によって先祖からの知識、伝統、文化が受け継がれている。これもアカ族と同様である。2004年にタイ南部を襲ったスマトラ大地震ではプーケットを始め、多くの島々で1万人もの死者、行方不明者を出したが、チャオレイは一人も犠牲者を出さなかった。それは日頃、先祖から伝承に「潮が引いたら山逃げろ」といった古謡があり、チャオレイはこの伝承に従っていち早く避難したからだ。震災後、バンコクの大学からチャオレイの古謡調査隊が来たという記事を読んだ覚えがある。
■自然と共生
リぺ島はチャオレイの一つ、ウラック・ラウォイと浅からぬ縁があることをネットで知った。ウラック・ラウォイはもともとインドネシアのスマトラ島に住んでいた。しかし、オランダの過酷な植民地政策を逃れ、スマトラ島から100年ほど前にアンダマン海の島に移ってきたと言われている。初めはランタ島に多く暮らしていたが、定住というわけではなく、モンスーン気候によって獲れる魚種や漁場が変わるため、季節ごとに移動を繰り返していた。アンダマン海には576の島があると言われるが、そのうち実際に人が住んでいる島は36、観光客が訪れる島は15ほどである。
ウラック・ラウォイは当初、ランタ島にいたが、島々への回遊を重ねるうちに淡水が得られ、平地のあるリぺ島に居住するようになった。当時、リぺは無人島であった。彼らはかつて豊富に存在していたナマコや、アーモンド、ジャックフルーツ、新田芽などのジャングル植物など、多種多様な海洋生物で生活していた。彼らはお金や所有権についてほとんど概念を持っていなかった。彼らは限られた作物を育てていたが、彼らの生活様式は農民よりも狩猟採集民に似ていた。ありきたりに聞こえるかもしれないが、ウラック・ラウォイは自然の楽園と調和して暮らしていた。
これは移動狩猟採集農民として北タイの山岳地帯に移動してきたアカ族やラフ族に似た生活様式だったかもしれない。
しかしながらタイ国内に住みながらタイ語も話さず、タイ政府の埒外で暮らす少数民族には強制的タイ同化策が取られる。その始まりは1974年にタイ政府がムコ・タルタオ海洋国立公園を設立し、全島の領有権を主張したことである。タイ当局の目には、ウラック・ラウォイは侵入者と映った。
■先住民の権利は
国立海洋公園に島々が指定されるとウラック・ラウォイは漁場を失い、それまでの自給自足生活は崩れた。これまで自分の土地と思っていた土地に「権利書」を持ったタイ人がやってきて立ち退きを迫った。プーケットで始まったアンダマン海の観光化が莫大な利益を生むことを知った人々は国籍を持たない少数民族の生活などどうでもよかったのだろう。そもそもウラック・ラウォイは公式の土地権利など持っていなかった。
タイ政府は北タイの少数山岳民族に対して行ったと同じくウラック・ラウォイに定住生活を奨励した。定住生活と国籍取得、教育はセットである。いい生活、お金の稼げる仕事に就くにはタイ語を学ばなければならない。それは北タイの少数山岳民族も同様だ。
現代のウラック・ラウォイの人々の中には、料理人、清掃など観光産業の底辺で働いている人もいる。だが観光客が日帰りツアーで利用するロングテールボートの船頭のほとんどは豊富な海の知識を持つウラック・ラウォイの男性という。
国籍取得、教育、より良い生活と引き換えに固有の言語、歴史、文化は忘れ去られていくのだろうか。少数民族の悲哀は南でも北でも同じである。