

館内展示

館内展示


碑に刻まれた文章


ブルネイでは図らずもスルタンに謁見できたし、美しいモスクも見たし、5千円かかるアフタヌーンティは諦めて珈琲だけ飲みに行った7つ星ホテルのカフェもよかった。でもブルネイは禁酒国であるから呑み助の自分としてはちとツラいところはあった。ブルネイに近接するマレーシアの直轄地、ラブアン島はタックスフリーの島で酒類はめちゃくちゃ安い。旅程の関係もあったがブルネイから高速船でラブアン島に渡ることにした。ブルネイからラブアンに渡る船の乗船券はネット予約はできない、1日1-2便、さらに毎日出ているとは限らない、あてずっぽうでも朝早く港に行って待っているしかない、と先人のネットには出ている。幸い、GHの女主人の尽力で乗船できる舟が見つかった。
ブルネイの港へ行って乗船時間を再確認、喉が渇いたが待合室にも港の周りにも売店はない。食堂もなければタクシー乗り場もない。マレーシア側からこの港に着いた旅人は入国直後に見るこの荒涼とした光景に愕然とする、とネットにあった。救いはチケット売り場に置いてあったGHの名刺だけ。此処に連絡すれば当座の一泊は何とかなるかも。ブルネイはお金持ちの国だからどこかの国みたいに観光収入などあてにしていないのだろう。
ラブアン島についてみたら港の入管を出たところに免税店があってウィスキーやビールケースが山積みになっていた。こういった免税店は島の至る所にあった。マレーシアがラブアン島を租税回避地としたのはマレーの香港にしたかったからと言われる。でも金融機能はなく、酒が安く飲める島としての評価のみとなっている。
■前田島
ラブアン島は20年6月まで日本軍の占領下におかれていた。日本の占領中、ラブアン島は初代北ボルネオ司令官で戦死した前田利為中将(侯爵)に因み、前田島と呼ばれていた。大東亜戦争末期、日本の敗色が濃厚だった昭和20年6月にボルネオ島と付属島嶼へオーストラリア軍を主力とした連合軍が侵攻してきた。ボルネオの戦いである。2日間の艦砲射撃の後,6月10日に連合軍はブルネイ地区に20,000人,ラブアン島に5,000人を揚陸させた。迎え撃つ日本軍は,ブル ネイ地区1,000人余、ラブアン島500人余であった。アメリカ海軍の支援を得たオーストラリア軍 は,上陸後数日でラブアン島をほぼ制圧し、17日にブルネイ湾上陸戦は終了した。日本軍は玉砕し、 市街地の建物はほぼ破壊された。1945年9月10日,軍司令官馬場正郎中将が,ラブアン島の現在 「降伏地点Surrender Point」と呼ばれる場所で正式に降伏文書に調印した。
ブルネイ湾は重要な海軍泊地だったが、すでに利用する艦隊は残っていなかったし、南方の物資を日本に送るにも既に制海権を失っていた。連合軍側にもボルネオの日本軍を攻める戦略的意味はないという意見はあった。私見だがブルネイの戦いはフィリピン奪還に伴う復讐戦以外の何物でもなかったと思う。西太平洋では日本兵の捕虜は少ない。それは掃討戦でほぼ無抵抗の兵や捕虜を殺したからと言われている。
■博物館見学並びに慰霊碑参拝
ラブアン島に来た目的はブルネイで飲めなかったビールを好きなだけ飲む、だけではなかった。ラブアン島には戦争中の歴史も公平に扱っているという博物館もあるし、「降伏地点」隣に建立されたボルネオ戦没者の碑もある。
ブルネイ博物館は閑散としていた。1階の歴史展示では「 ラブアンの日本占領」のコーナーがある。破壊された町の様子とともに,マレー語と英語で物資の不足でラブアンの経済生活が悪化したことが説明されている。また前田島は「MAIDA ISLAND」と記されていた。
タクシーで博物館からボルネオ戦没者の碑がある平和公園に行った。公園は市街地から反対側の北西の海岸沿いにある。不便なところなのか全くひと気はなかった。3万8千平米のこの公園は日本政府により昭和59年に完成した。戦没者の碑には日英両国語で「さきの大戦においてボルネオ地域及びその周辺海域で戦没した人々をしのび平和への思いをこめ てこの碑を建立する」と刻まれている。碑は20mほどの幅がある。近年、戦跡に建立された戦没者慰霊碑を金づちで壊して回る輩がいるが、この大きさではブルドーザーでも破壊はできないだろう。平和公園に隣接する「Surrender Point Memorial」にも人影はなかった。1945年9月、此処に立っていた馬場陸軍中将は「サンダカン死の行進」の責任を問われ、BC級戦犯として処刑されている。
平和公園、降伏地点の前には穏やかに波が打ち寄せるラヤンラヤンガンビーチが広がっていた。砂浜を歩きながら、この旅の宿題を一つ果たしたように感じた。