





ブルネイで尊敬されている日本人
■日本統治下のブルネイで
所得税はなく教育費、医療費もゼロ、今でこそブルネイは世界でも有数の富裕国であるが、かつてはアジアの最貧国の一つであった。歴史的にはポルトガル・スペイン・オランダそして英国の植民地として搾取の対象とされた。大東亜戦争により日本軍が英国軍を駆逐した結果、1942年から1945年までの約3年間、日本はブルネイを「ブルネイ県」として統治した。そして1942年にブルネイの県知事に着任した日本人が木村強(つよし)氏、宮城県職員で当時41歳。
木村氏は王位を尊重し敬意を持って接した。王様や側近の人達も日本人に対して親近感を持って接触し丁重に迎えた。
木村氏は王様から何か希望はあるかと問われたので、ブルネイに詳しい人を秘書として欲しいと答えた。秘書となったのは王様の弟(当時26歳)頭脳明噺な好青年。こうして木村氏と秘書たちは一緒に仕事をすることになった。
■ブルネイの自立と発展に力を注ぐ
植民地は搾取されるのが常識だったが、木村氏はブルネイを日本の国益だけを考えて統治するのではなくブルネイの自立と発展にも力を注いだ。
(kansai.me/tdym/ww2nd/brn-hudoki05.htm ブルネイ王に招かれて 木村強)
木村氏は次のような信念で統治した。
・日本人の言動が、後世にも笑われたり、批判されたりしないように統治する
・品位を保ち、日本の国際的信用を高める
・大事なのは今ではなく未来であり、目先の利益のための搾取などしない
・深い信頼関係を築くことで長く付き合う
・自立発展することで長期間お互いが繁栄する
貧しい国だったので経済的に自立できるように天然ゴムが採れることに注目し、原油開発の費用を回して現地に工場を建て、現地の人を雇い、きちんと賃金を払った。
道路・電気・水道・通信などのインフラ整備を進め、子供の教育の機会を与え、自立できるようにした。さらには、現地の人から怖れられていた首狩り族のイバン族を度々訪れ、イバン族とブルネイ人、そして多数の部族がいがみあっていた状態から融和をもたらした。
ブルネイ人の自尊心を傷つけぬように心に寄り添い、現地の風習を最大限に尊重し接することにより現地の人々も協力してくれた。
■日本文化により日本人が尊敬されることに
木村氏の任期は僅か1年程だったが、皆から絶大な信頼を得た。この1年でブルネイの生活基盤が激変し国の基礎ができた奇跡の1年となったからである。
木村氏がブルネイを去る時には送別会が催され、ブルネイ人の幹部も木村氏も男泣きした。ブルネイでの任期を終えた木村氏は戦後、捕虜生活を送った後、宮城県で公務員生活を送る。
1963年、日本の商社の幹部経由でブルネイの王様から会いたいとの書簡が届き、木村氏はブルネイに飛ぶ。王様は、以前来日した折りに木村氏を探したが会えなかったという。
「22年ぶりですね」、にこやかに手を差し出す王様は木村さんがブルネイ県知事をしていた時に秘書を務めた当時の王様の弟だった。
秘書として共に仕事をしていた当時の王様の弟が、多くの経験・見識・民主的考え方を身につけ王様になり、ブルネイの発展のために献身的に働いておられた。
王様と木村氏の会見は約3時間にわたり(イギリス等の国賓の接待ですら2時間を限度としているのに!)、王様は木村氏にブルネイに来ることを望まれるのであれば、希望する地位と職業を用意するとまで仰られた。木村氏は「ブルネイは実に立派な国になったので私の力は必要ありません。遠くからブルネイの発展を見守っています」と固辞した。
木村氏がブルネイを再訪した際の王様の名前は、オマル・アリ・サイフディン3世、そのサイフディン3世前国王の息子が、ハサナル・ボルキア現国王である。(自分が謁見の栄に浴し、握手した王様)
木村氏は県選挙管理委員会の会長等を務め、1978年に逝去、享年79歳。
■先人のお陰
上記の逸話はブルネイの日本語ガイドさんが必ず紹介してくれるらしい。限られた現地の人々との接触でも彼らが親日的であることは感じられた。木村氏の『日本人の行動、日本人の行為が後世に笑われ、批判されるようなことがないように、品位を維持し日本の国際的信用を高め、長く良い印象を残しておけばいつか海外に発展飛躍ができるから、好感と信頼感を保つようにしたい』という信念は、今も多くの日本人に共有されていると信じたい。
両国の関係は良好で政財界人の往来はもとより、皇室とも関係が深い。
蛇足ながら、最近、ブルネイ留学が人気とか。英語で学べるし、酒、煙草禁止、さらに不倫は鞭打ち刑になるから勉学に勤しむしか道はない。親御さんも安心ではないかと思う。
(本稿はリアル・インテリジェンス、「ブルネイを最貧困国から最裕福国にした日本人」を参考にさせて頂きました)