チェンライの市場から

「市場に並べられた商品からその国の生活がわかる」と言われます。当ブログを通じてチェンライに暮らす人々の生活を知って頂きたいと思います。 チェンライに来たのは2009年から、介護ロングステイは2018年8月母の死去で終わりとなり、一人で新しい生活を始めました。

家を建てた(5)

今からキッチンを臨む

寝室1

寝室2

同上

居間、ソファを買いたい

玄関、お坊さんの書いたお呪いがそのままになっている


家を建てた(5)

■整理が進まない

新しい家に移って1月近くたつ。落ち着いたか、と言われるとそうでもない。旧宅には14年住んだわけで、概ね、どこに何があるか承知していた。キッチンでも包丁、ハサミ、スプーン、フォーク、菜箸、おろしがね、あるいは数ある調味料の置き場所は熟知していた。でも新居での整理整頓をおばさん軍団がやったので、どこに何があるかが一瞬ではわからない。調味料、食器などまとめて置いてあるが、置いてあるところを探さないとお目当ての品が出てこない。長年にわたっていろいろ買い求めたものだから、使っていない、あるいは量の少ない調味料がいくつもある。捨ててくればよかったのだが、グズグズして引っ越し前の整理を怠ってしまった。開封、開栓して1年以上使用していない調味料は捨てると決めて実行しておけばよかった。

相当整理したつもりであったが、兄と自分、二人分の衣服が箪笥やプラスチックの衣装棚に入りきらない。兄はおしゃれだから長ズボン、長袖シャツ、ジャケット、またブランド物のセーターが大量にある。自分はジャケットを一着持っているが、昔、総領事館で行われた新年パーティで着ただけでここ数年、着用していない。1年使わなかった調味料や食器を整理するのであれば、数年以上、袖を通してない衣服は無くても問題ないはずだ。兄が残していった衣類にはブランド物やカシミアなど高価なものがあるが、タイにいる限りは着ることはないだろう。

日本の家を建て替えるときに、1,2度しか袖を通していない礼服をはじめコートなどすべて処分した。ウズから持ち帰ったゾロリとした濃紺のコートは結局、一度も着ないうちに捨てた。これは兄が家財の一切合切の処分を業者に依頼したからできたのであって、自分で捨てるとなると優柔不断な自分にはなかなか難しかったと思う。

ここ1年使ったかどうか、この先、1年で必要か否か、予めしっかり基準を決めて断捨離を実行しなければならない。

 

■過去を捨てた

衣料や食器、鍋窯の類を整理することも必要であるが、ひょんなことから自分の過去が整理されてしまった。というのは3月にパソコンのソフト入れ替えを業者に依頼したときに、「消さないでね」と頼んでおいたデータがきれいさっぱり消えたからである。現在、帰国中に新規購入したLenovoのラップトップを使っているが、10年ほど前に購入したデスクトップもなんとか使用に耐えた。でもソフトがWindows8でちと不具合が出てきたのでW10 への入れ替えをチェンライのパソコンショップに依頼した。入れ替えはうまくいって、ネットもサクサクつながるようになったが、デジカメ写真、自分の書いた原稿、CDからコピーした膨大な音楽、住所録などここ20年にわたる1テラのデータは消滅していた。

データが無くなったと気づいた時はショックを受けたが、すぐに何かせいせいした気分になった。住所録は年賀はがき用であったがウズに行って以来、つまり20年近く賀状のやり取りはしていない。元々、必要なかったのだ。

写真だってプリント写真は家の整理で失われている。子供の時の写真など誰も見ない。1970年代、海外で撮った写真も多すぎて何十年も見返すことはなかった。なければないでさっぱりする。デジカメ写真は場所を取らないからと言ってデータ保存しておいても結局見返すことなど殆どなかった。音楽はネットから拾えるし、自分の書いたものなど自分を含めて誰も見ない。あってもなくても同じ。却って、後々、あいつ、こんなこと書いていたんだ、こんな写真残していたんだ、と言われないだけ良しとすべきだと思う。

 

■老年鬱の始まりか

私には過去などありません、あるのは現在と未来だけです、と偉そうに言いたいが、「おあんたに未来はあるの?」と聞かれれば答えようがない。家を建てても平均余命から言えばあと数年しか住めない。いい家具を買いたいなとは思うが、安くても使えればいい、もしかしたら家具などなくても凌げるではないか、と思ったりする。取っ手がちぐはぐについるタイ製の衣装箪笥を買うくらいなら、プラスチック製の積み重ね引き出しでもいいか、と思ったりする。悩んでも10年も生きないのだから、と思う反面、10年だからこそ、自分の思い通りのインテリアと家具に囲まれて暮らしたい、と夢想する。でも思い通りのインテリアって何よ、と考えるとセンスのない自分には具体的な案が浮かばない。そうこうしているうちにお迎えが来るというものだ。それはそれでいいか、と思っている。

些細なことに悩むのは老年鬱の始まりではないかと気が重くなる。