チェンライの市場から

「市場に並べられた商品からその国の生活がわかる」と言われます。当ブログを通じてチェンライに暮らす人々の生活を知って頂きたいと思います。 チェンライに来たのは2009年から、介護ロングステイは2018年8月母の死去で終わりとなり、一人で新しい生活を始めました。

老人の覚悟(4)

トードタイの朝市

自家製野菜

朝取り春菊、一山10B

鶏肉屋

豆乳と揚げパン



老人の覚悟(4)


■「戒老録」曽野綾子著より

「死ぬまでに、ものを減らして死ぬこと」
私の母は、みごとな始末をしてこの世を去ったと思う。 
 もう体が不自由になって、外出もできなくなったと自分で思ったのだろうか、
 彼女は死の数年前に、着物から新しい草履、ハンドバック、ちょっとした指輪まで、全部ほしいという人にあげてしまっていた。 
 母の遺品を始末するのに半日だけしかかからなかった。

 後には、ただ爽やかな日差しだけが空っぽになった部屋に残っていた。
 母が亡くなった時、僅かばかり持っていたへそくりもちょうど尽きかけた時だった。
 財産さえうっかり残すと、後に残された遺族は手数がかかる。 
 何も残さないのが、最大の子供孝行だと私は感じている。(引用終り)

品川区の家を兄が整理した。一部は自分も手伝ったが、書籍、写真、衣服、電化製品、箪笥、鍋釜什器の類を一切合切捨てた。捨てきれないものは家の取り壊しを請け負った業者に頼んだ。数十年に亘るわが家の歴史はきれいさっぱり無くなった。気持ちが楽になった。思い出に浸っていては捨てるものも捨てられない。写真があっても思い出を語る人が消えていれば残していても意味がない。自分にも何も思い出せない時が来る。いい機会だったと思っている。

チェンライに戻っても捨て癖が付いていて、衣服、書籍、10年分の無料情報誌ちゃーおなどを処分した。チェンライではゴムの伸びたパンツや古い運動靴でも喜んで貰ってくれる人がいる。衣服も戸棚ひとつに納まるが、短パンを数えてみたら8本もあった。ニイさんが2日に1度は洗濯をしてくれるからTシャツも数枚あれば足りるはずだが20枚以上ある。遺品の始末に半日もかからないと思うが、まだモノが溢れている。第2次整理活動が必要だ。

■「戒老録」曽野綾子著より

「ほどほどの効用」                 
 人は、一度に死ぬのではない。機能が少しずつ死んでいるのである。
 今迄歩けた人が歩けなくなり、今迄見えていた目が見えなくなり、今迄聞こえていた耳が聞こえなくなっている。 だから、中年を過ぎたら、いつも失うことに対して準備をし続けていなければならない。失う準備というのは、失うことを受け入れるという準備のことである。

しかし、やはり冒険はいいものだ。 冒険は心の寿命を延ばす。若い日に冒険しておくと、たぶん死に易くなる。

 60を過ぎたら、その人は人間として良い処は既に生きたのだ。 70を過ぎたら、その人はもっと余分に良い処は生きたのだ。

 だから、その後どれだけ長く生きたかと言うことは、大した問題ではない。
迄歩けた人が歩けなくなり、今迄見えていた目が見えなくなり、今迄聞こえていた耳が聞こえなくなっている。 だから、中年を過ぎたら、いつも失うことに対して準備をし続けていなければならない。 失う準備というのは、失うことを受け入れるという準備のことである。(引用終り)

■人はどれだけの土地を必要とするか
モノはなくなっていく。身体能力は失われていく。でもがっかりする必要はない、墓場に持って行けるものはないのだから、もともとなかったと思えばいい。

トルストイに「人はどれだけの土地を必要とするか」という短編小説がある。土地さえあれば幸せになれると信じる農民、パホームは、バシキール人から土地購入の契約をする。夜明けから始めて、好きなだけ広いエリアを歩き回って、その日の日没までに出発地に戻ると、ルートが囲む土地はすべて彼のものになるが、出発点まで戻ってこられないと、お金を失い、土地を受け取ることができない。

彼はできるだけ遅くまで歩き回って、太陽が沈む直前まで土地に印をつけていく。日没近くなって彼は自分が出発点からはるか遠くまで来てしまったことに気づき、待っているバシキール人のところまで一目散に走る。ちょうど太陽が沈む頃、彼はついに出発点に戻ってくる。バシキール人は彼の幸運を称えるが、走りに疲れ果てたパホームはその場で倒れて息絶えてしまう。彼の使用人は彼をたった6フィートの長さの普通の墓に埋めて、物語のタイトルで提起された質問に答えが出る。

タイは小乗仏教の国、死者のための墓は建立しない。遺灰を川や山に撒くだけ、6フィートの土地もいらない。何もこの世に残さず、きれいに消える。タイ式に葬られれば、葬式の費用はほとんどかからず、残された人も安心だ。100カ日の法要が終われば、皆の記憶から死者は消える。それでいいのだ、と思う。