チェンライの市場から

「市場に並べられた商品からその国の生活がわかる」と言われます。当ブログを通じてチェンライに暮らす人々の生活を知って頂きたいと思います。 チェンライに来たのは2009年から、介護ロングステイは2018年8月母の死去で終わりとなり、一人で新しい生活を始めました。

京都観光(3)

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本堂正面

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三十三間堂裏側から

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京都御所入り口、清所門

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紫宸殿、ここで五箇条の御誓文が下された

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御学問所、ここで王政復古の大号令が発せられた

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御池庭

 

京都観光(3)

三十三間堂
清水寺から京都駅行バスで5分、三十三間堂に着いた。ここは修学旅行でざっと半世紀前に訪れている。三十三間堂というから三十三間、1間は1.8メートル、だから1.8メートルX33で60メートルくらいの長さの建物なのかと思っていた。しかし、境内に立ってみると本堂の大きさに圧倒される。木造建築物としては世界でも類を見ない南北に120m、奥行き22m、高さ16m、自分の思い込みの倍の長さがある。三十三間堂という名前は、南北120mに渡る本堂の内陣に「33の柱間」があるという特徴から由来するという。「三十三」という数字にも理由があり、 観音様が人々の救済のため「三十三の姿に変化する」 というエピソードに基づいているとのこと。

大きさを実感するために本堂を一周する。人か上げはまばら。東大門の両側に和風庭園があった。三十三間堂庭園は江戸時代にカキツバタ(燕子花・杜若)の名所だったと言われているが、現在の庭園は1961年(昭和36年)に作庭家・中根金作(なかねきんさく)の監修によって作庭された。三十三間堂庭園は芸術性を強調した鎌倉時代の作庭法によって作庭され、池畔にサクラ・サツキ・ボタン・ツバキ・ナツツバキ・スイレンなど四季の花々が植えられている。回廊塀に囲まれているが境内には自由に入ることができる。ベンチが所々にあるので、池の畔をゆっくりと眺めるのも悪くはない。時間はあるし、またこの日は気温が高かったので、本堂に入る前に木陰に腰を下ろし、時折通り過ぎる人を眺めた。一人旅は休憩も参拝も自分の都合で自由にできる、というより足腰を休めないと、と気になる。

■観音像群に圧倒される
三十三間堂の拝観料は600円。A4三つ折りのしおりには「無限の慈悲・千体の観音立像」、「国宝雷神と風神像」、「国宝観音二十八部衆像」の3つについて日、英、中、韓の4言語で解説されている。本堂に入った時、1001体の観音像の迫力に圧倒される。不信心な自分ではあるが思わず背筋が伸びる。鋳物の金ぴか釈迦像に慣れたタイ人が本堂に足を踏み入れたら吃驚するのではないか。芸術性、歴史、有難み、月とスッポン、とてもタイののっぺりした釈迦像が及ぶところではない。

堂内での撮影は禁止となっている。緊急事態宣言が発令中であったから、参拝客はパラパラとしかいなかった。フラッシュを焚かなければ、人の迷惑にもならないし、と思ったが、通常は外人でごった返す本堂、撮影自由にしたら、押し合いへし合いの阿鼻叫喚となるかもしれない。絵葉書が売れなくなるから、というしょぼい理由ではなく、熟慮の結果、撮影禁止となっているのだろう。

千体の観音像は重なり合っているのですべての御尊顔を拝することはできない。しかし、堂内入り口に仏像検索システムがある。半世紀前の修学旅行では考えもつかなかった技術の進歩だ。「三十三間堂内の仏像すべてを検索でき、上段におられる観音さまもはっきりと尊顔を拝見できるタッチパネル式モニターを設置。すべての観音様とご縁を結ぶことができます」とのこと。このソフトが欲しいと思ったがもちろん売っていない。

京都御所
京都御所は英語で言えば「kyoto Imperial Palace」だ。しかし欧州やアジア諸国の王宮と違って、敵や民衆の襲撃を防ぐための堀とか高い城壁はない。兵士のための兵営もない。これが古来からのご皇室、日本の在り方だ、と青山繁晴参議員が力説していたので、一度は行ってみたかった。

朝9時の開門直後に清所門から御所に入る。入場料は無料、ただし、入り口でアルコール消毒と共に皇宮警察官から手荷物検査を受ける。首から下げる入館証の番号は4番、自分のあとには誰もいなかった。京都御所は1331年から1869年(明治2年)までの間の内裏(天皇が居住し儀式・公務を執り行った場所の事で、現在の皇居とほぼ同義)。現存する建物は概ね1855年安政2年)に造営された安政度内裏である。他国の王宮と違って金銀の煌びやかさは全くない。古神社のような簡素のなかにも格式を感じさせる建物が多い。

平安の頃には、御所に泥棒が入ったというし、戦国時代には塀の隙間から、清涼殿で天皇がアルバイトの百人一首書きをしているお姿が垣間見られたという。それでも天皇に危害を加えるとか、その地位を奪う人は出なかったことは特筆されてしかるべきだ。王様の首をチョン切ってしまう歴史を持つ白人には考えられない。御所は日本人の民度の高さをかたちとして見せてくれる。

御所は国賓の接遇に使用されているという。日本の為に大変良いことと思う。先人はいいものを残してくれました。