チェンライの市場から

「市場に並べられた商品からその国の生活がわかる」と言われます。当ブログを通じてチェンライに暮らす人々の生活を知って頂きたいと思います。 チェンライに来たのは2009年から、介護ロングステイは2018年8月母の死去で終わりとなり、一人で新しい生活を始めました。

3・11の思い出

 

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 2月の梅

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同、紅梅

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3月、菜の花

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家の近くで

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区の公園課で植栽したらしい

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沈丁花、タイでは見たことがない

 

3・11の思い出

 

■あの時、中国に行っていた
東日本大震災が起こって10年になる。あの日、何をしていましたか、と聞くとほとんどの人がその日の記憶を語る。それだけ衝撃の強い出来事だった。

自分はチェンライに移り住んで3年目、生活にも慣れてきて旅行の足も伸びてきた。それで初めての中国本土旅行を敢行することにした。朝、ラオスのフエサイからボーデンへ、ここから中国の国境モーハンへ入り、モーハンからバスで200キロほど北上すると雲南省、西双版納(シーサパンナ)タイ族自治州の州都、景洪(ジンホン)に着く。チェンライから1泊2日のバスの旅だ。

景洪はメコン河に面しており、下流のタイ、チェンセーンには小型貨物船が行き来している。「している」、ではなく「していた」といった方がいいかもしれない。最近は中国がメコンの支流という支流にダムを造り、本流に流れ込む水を制限しているからだ。水深が浅く、船が航行できない。またメコンにいくつもの友好橋がかかったことも水による物流の必要性を削いでいるかもしれない。

■テレビで衝撃の映像を
景洪で2,3日過ごした後、雲南省省都昆明に行った。ここで暮らす友人のFさんと連絡が付いた。景洪でストレスのかかる日々を過ごしたので、Fさんの出現はまさに地獄に仏だった。

2011年3月11日は二人で昆明湖といわれる滇池を見物に行った。膨大な数の鴎が人を恐れる様子もなく、手からエサを啄んでいく。風は強かったがのどかな日だった。市内に戻ろうとバス停まで歩いているところでFさんの携帯が鳴った。日本で大地震が起こったらしい、家に帰ってテレビを見ろ、と中国の友人が言っている。予定を切り上げてFさんのアパートに戻った。

テレビでは車や家が波にのまれ、流されていく様子が繰り返し、放映されていた。アナウンサーが、死者は100名を超える模様、と言っていた。阪神淡路の時も初めは被災者の数が少なかった、100人や200人じゃすまないよなとFさんと話し合ったことを思い出す。Fさんの携帯には中国各地からお見舞いコールが次々に掛かってくる。東北だけでなく東京も大きく揺れ、交通はマヒ、帰宅難民も多かったと後で知った。11日の晩はテレビ情報とFさんが国内にかけまくって得た情報を基に、ああでもない、こうでもないと話し合った。Fさんの奥さんは東京にある会社の社長、事務所に近い彼女の家には帰宅できない社員が数人泊まりこんでいた。余震に怯える社員を叱咤激励している彼女と話して、自分まで心強く思ったものだ。

■震災のあと
予定を早めて13日には昆明からチェンマイに戻った。それまでずっとFさんのアパートでテレビにくぎ付け、12日には福島第一原発の水蒸気爆発が起こった。この爆発の瞬間は何度も何度も放映された。日本の壊滅を予感させるものだった。更に上海の街角でインタビューされた中国人ビジネスマンが「この機会に日本を追い落とし、中国経済の発展をすすめるべきだ」と嬉しそうに言っている。死者、行方不明者の数はどんどん増えていく。Fさんは宮城の友人と連絡が取れないと頭を抱えている。

ブログに中国旅行や大震災のことを書き始めたのは4月、5月になってからだと思う。タイで大震災特集の写真雑誌を見た。最近まで新聞に交通事故の死体写真が載るのが普通だった国だから、津波による被害者の御遺体の写真も載っていた。またどのページにも自衛隊員が出ている。地元消防、警察、ボランティアの人々も救援に参加したが、普通に被災地の写真を撮ると、自衛隊が写りこむということだろう。日本の報道でも自衛隊員は出てきたが、タイの写真集ほどではない。NHKをはじめとするテレビはなるべく自衛隊を映さないという方針で臨んでいることが、タイにいるおかげで分かった。

大震災は悲劇ではあったが、その陰で心を揺さぶられるエピソードは沢山あった。タイも国を挙げて被災民を励まし、多額の援助をしてくれた。

現在の上皇陛下が震災直後の3月16日に出されたお言葉には深く感動した。救援活動に携わった人々への感謝とねぎらいのお言葉のトップに自衛隊の名を挙げられている。

「被災した人々が決して希望を捨てることなく,身体を大切に明日からの日々を生き抜いてくれるよう,また,国民一人びとりが,被災した各地域の上にこれからも長く心を寄せ,被災者と共にそれぞれの地域の復興の道のりを見守り続けていくことを心より願っています。」
結びのお言葉である。首相が何人変わろうと、こういったご存在を上に頂く日本国民は幸せであると心から思う。