酒談義
■「文豪と酒」
中公文庫の一冊に「文豪と酒」がある。酒をめぐる珠玉の作品集、と副題がつ
いている。独り暮らしの無聊を慰めてくれ、と友人が送ってくれた本の中の一
タイトルの頭には、ビール「うたかたの記」(鴎外)、ウィスキー「夜の車」
っている酒のところから読み始められる。ジンであろうがアブサンであろうが
読む分には悪酔いも二日酔いもないのがいい。
最近はなんだかなーと思う他人のブログやニュース解説をネット上で読むことが
多いので、有名作家の文章を読むと、バカラの白ワイングラスに注がれたシャ
トー リューセックを啜っているような幸せを感じる。辛口で爽やかで引っ掛か
りが一つも感じられない。
「カフエ・シヤノアルは客で一杯だ。硝子戸を押して中へ入っても僕は友人たち
をすぐ見つけることが出来ない。僕は少し立ち止っている。ジヤズが僕の感覚の
上に生まの肉を投げつける。その時、僕の眼に笑っている女の顔がうつる。僕は
それを見にくそうに見つめる。するとその女は白い手をあげる。その手の下に、
僕はやっと僕の友人たちを発見する。僕はその方に近よって行く。そしてその女
とすれちがう時、彼女と僕の二つの視線はぶつかり合わずに交錯する。」
漢字とひらがなを作為的に使い分けている。カフェではなくカフエと書くのも大
正時代を偲ばせる。20歳になったばかりの「僕」がカフエでクラレットを注文し、
「娘」と店の外で会う約束を取り付ける。結局、「僕」は「娘」に振られてしま
う。なんだそれだけ?と言われれば、確かにそれだけの話である。こういった小
説は単に筋を追うだけではなく、文章の流れや美しさ、技巧をも楽しむものだ。
ワインだってワインそのものの味もさることながら料理のバランス、会話など総
合的に判断すべき、といったことに似ている。
■「酒談義」
この本の巻末に中公文庫既刊より、という紹介ページあった。その中に吉田健一
名門である。政治にはからきし興味がなく文芸評論家、随筆家として生きた。
外国暮らしが長く、頭の中では英語やフランス語でものを考えていたらしい。帰
国子女のハシリだから文壇でも日本語がおかしいと揶揄われていた。区立図書館
録されていることがわかり、早速取り寄せてもらった。
そうな怪しいジンからカストリ、カクテル、ブランデー、ウィスキー、シェリー
と、テレビの食レポならば「口一杯に広がる芳醇な香り、ああ、美味しいです」
で済ませる説明を数ページにわたって縦横無尽に語りつくす。ブルゴーニュとボ
ルドーのワインの違いについて説明した後にこのような文章が続く。
「しかし酒というのは勿論、味だけの問題ではないので、ブルゴォニュの白葡萄
酒を注いだ盃を口に持って行くと、ほら、唇(くちびる)を濡らしたよ、舌の上
に乗ったよ、喉を通っているよ、お腹に降りたよと、酒の味、匂い、厚さその他、
一切の機能をあげて知らせてくれて、なんだか生きていることが嬉しくなる。
もっとも、これはボルドォの白葡萄酒も入れて、いい酒の全部について言えるこ
となのだから、これでは説明にならない。ただ、いつも思うことは、ボルドォの
葡萄酒の上等なのはどこか、清水に日光が射している感じがして、ブルゴォニュ
のを飲むと、同じ日光が山腹を這う葡萄の葉に当たっている所が眼の前に浮ぶ」。
の表現が秀逸だ。シャブリなら一人大瓶2本あればまあ堪能できると言っているか
ら、かなりの酒豪である。量を飲めば味が解る、という説明にも納得した。
紹介されているプイィ・フュイッセ、ピュリニイ・モンラシェ、グリュオ・ラロ
ーズ、ニュイ・サン・ジョルジュ等のワインは今、通販で手に入ることが分かっ
た。毎日は無理にしても誕生日、あるいは死に水として自分のような庶民にも充分
手に届く範囲だ。いい時代に生まれたものである。