チェンライの市場から

「市場に並べられた商品からその国の生活がわかる」と言われます。当ブログを通じてチェンライに暮らす人々の生活を知って頂きたいと思います。 チェンライに来たのは2009年から、介護ロングステイは2018年8月母の死去で終わりとなり、一人で新しい生活を始めました。

品川神社参拝 

 

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品川神社大鳥居

 

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石段、かなり急

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神社本殿

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絵馬

 

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絵馬2 

 

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板垣退助の墓


 

品川神社参拝 

 

■寺社数の比較

街を歩いていて、お寺や神社が多いことに気づいた。タイにいる間にお寺に参詣し、タンブン(お布施、徳を積む)をするようになった。タイ国内を旅行すれば、必ずと言っていいほど土地のお寺に詣でる。そういった生活を送ってきたから、宗教施設感度が高くなっていて、家の周りの神社仏閣が目につくようになったのかもしれない。

タイにいくつお寺があるかというと約4万、そのうち使われているお寺の数は33,902という。日本は、というと文化庁の宗教統計調査平成29年度によると、寺の数が77,256、それに神社の数が81,158、合わせて15万8千ほどの神社仏閣がある。人口差を考えても日本の方が多い。

多事多難の昨今、3密を守るくらいしかやることはない。でも体を動かさないと免疫力が落ちて肺炎にかかりやすくなる。たまたま、品川の神社、寺院ランキングを見ていたら「品川神社」が出てきた。かなり立派な神社らしい。まだ行ったことはない。我が家から12キロ、サイクリングに行くには格好の距離だ。

 

■心が浄められる

道に迷ってもう帰ろうかと思ったときに神社が見つかった。第一京浜旧東海道に面している。正面に石造りの大鳥居があって、右の柱には昇り龍が、左の柱には降り龍が彫り込まれている。かなりの迫力だ。この大鳥居をくぐって勾配のある石段を上る。石段は掃き清められていて、季節柄、何片かの桜の花びらが散っていた。本殿に近づくにつれて心が浄化されていくように感じる。石段を登り切って振り返ると北品川の街並みが見える。古くは海が見晴らせたのだろう。

品川神社平安時代末期の文治3年(1187)に、源頼朝安房国の洲崎明神(現・千葉県館山市鎮座 洲崎神社)の天比理乃咩命を当地に迎え、海上交通安全と祈願成就を祈ったのを創始とする。慶長5年(1600)、徳川家康関ヶ原の戦いへ出陣の際に参拝し戦勝を祈願し、その後、祈願成就の御礼として神輿などを奉納した。

タイの歴史は13世紀のスコタイ朝に始まる。スコタイ以前の神社だ。これだけでありがたみが増す。時節柄、広い境内にはほとんど人がいない。近所の人であろうか、親子がやってきて参拝している。まだ小学生だが、作法通り手水で清め、二拝二拍手一礼で本殿に詣でていた。こうして伝統は続いていくのか。

自分もお賽銭を上げて冠状病毒退散を祈願した。本来、神社では神様にお願い事をしてはいけないのだそうだ。これまで無事に過ごしてまいりました、の感謝とこれからもお見守り下さい、と自分の誓いを述べる。

神社には絵馬が上がっている。そのうちの一つ、小学4年生の男の子の絵馬、「4教科で100点を取ります。よろしくお見守り下さい」。これが正しいの参拝の仕方なのだろう。

 

板垣退助の墓

神社境内の一角に小さな墓地があり、2基の大きな墓があった。板垣退助と令室の墓だ。ここは寺の敷地だったが関東大震災で寺が移転した後、墓だけが残されたという。墓の右手には「板垣死すとも自由は死せず」と刻まれた石碑がある。文字は佐藤栄作の揮毫による。板垣が1881年に創設した政党、「自由党」が時代を経て現在の自由民主党になっている。その縁だろうか。

大学でR先生の「江戸政治史」の講義を受けた。板垣が暴漢をハッタと見据え、「板垣死すとも自由は死せず」と叫んだ、はウソ、当時の記録を見ると、こけつまろびつ、舞台のそでに逃げ込んだ、事件の後、書生が「先生が亡くなっても・・・」と言ったコメントを当時の新聞記者が書き飛ばしたのが真相だそうだ。怪我した板垣を最初に診たのが後藤新平、後藤は傷を一目見るなり「しんぺえねえ」。学生たちがわっと笑ったあと、先生は「板垣は学校を作ればよかったんですよ」と呟かれた。

同時代の大隈重信は早稲田を、新島襄同志社を建てた。慶応義塾は言うまでもない。板垣は土佐に立志社という政治団体を持っていたが、やはり土佐あたりで学生が集まる見込みがなかったのだろうか。

思いがけず板垣退助の墓を発見したおかげで半世紀以上前の講義を思い出した。自分としてはめづらしく全授業に出て、一生懸命ノートを取った。エピソードなども記録したと思う。漫才芸人のネタ帳ではないが、あのノートが手許にあれば、ブログになに書こうかなあ、などと悩まないですんだかもしれない。よく書けているというので、同級生や後輩に借りられているうちにノートは行方不明になってしまった。

ああ、貸したノートと青春は戻らない。