チェンライの市場から

「市場に並べられた商品からその国の生活がわかる」と言われます。当ブログを通じてチェンライに暮らす人々の生活を知って頂きたいと思います。 チェンライに来たのは2009年から、介護ロングステイは2018年8月母の死去で終わりとなり、一人で新しい生活を始めました。

サマルカンド (2/4)

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サマルカンドへ行く その2(ベク君の故郷、タラボタ村)

日頃、おとなしいベク君も久しぶりの故郷ということで家族、親戚、友人と抱きあって再会を喜んでいる。こちらは握手攻めだ。これがおじさん、これが姉さんとその連れ合い、従兄弟、姪、甥、いろいろな人を紹介されるがとても覚えきれない。はじめは大家族だなあ、と感心していたが、ベク君が外人を連れてくるというので、近所の人や親戚が総出で見に来ていたらしい。ベク君の家自体は両親と高校生の弟の3人家族だ。20歳以下の人口が60%という国だから、姪、甥、従兄弟など子供が十数人はいたと思う。男の子は丸坊主にしている子が多い。涼しいからという理由で女の子でも丸坊主というのも珍しくない。

門を抜け、幅8メートル、長さ20メートルほどの大きな家に案内される。屋根が張り出したテラスに絨毯と座卓が置かれている。ここに先程買ってきたお菓子や果物が小皿で卓一杯に並べられる。テーブルの上を食べ物で一杯にしておくのはウズベクの習慣という。座卓の周りにお父さん、おじさん、従兄弟、お父さんの友人など男ばかりが座る。年配の人はデュッペというイスラム帽を被っている人が多い。長い座布団を敷き、そこに正座あるいは胡坐をかいて座る。立てひざも決して礼儀はずれではないようだ。

まずはウオッカで乾杯。日本人が来るというので、待っていたらウズベク人そっくりの人が来たなどとお父さんが冗談を言う。こちらに来てウズベク人にまちがえられたことは何度かある。バスの中で運賃を払おうとお札を持っていたら乗客が車掌と間違えて160スムを自分に渡そうとしたことがあるし、バス停でなんやかんやとウズ語ではなしかけられ、ロシア語で判らない、日本人です、といったら相手が英語ですみません、すっかりウズベク人と思っていましたと恐縮されたこともある。ウズベク族はトルコと蒙古の混血であるから日本人によく似ている人がいてもおかしくはない。それにしても昔、仕事で韓国に行っていた頃は、半分くらいの人がハングルで話しかけてきたし、台湾では「客家」出身でしょう、などと中国人に見られた。自分はカメレオン人間なのか。それとも国籍不明、特徴のないスパイ向きの顔立ちなのか。

テラスの前にはプラムやりんご、イチジクなどの果樹が植えられ、その先が野菜畑になっている。今日は歓迎プロフを作る、とお父さんが畑から掘ってきたばかりの人参を刻み始めた。プロフを食べない限り、その家を辞してはいけないというウズベクの格言があるそうだ。

ベク君と村内を散歩する。370家族、1500人ほどの村民、この村でひとつのマハリャ(自治組織)を形成している。皆、顔見知りなので、ベク君は村人と出会うたびに握手をしたり、抱き合ったり忙しい。未舗装の道をロバの引く荷車が行きかう。自動車よりも荷車のほうが多い。
学校やモスクを案内される。モスクでは居合わせたイスラム僧がありがたいコーランを唱えてくれた。お祈りの内容は皆平安でありますように、といったものだそうだ。100スムほどのお布施を賽銭箱に入れた。

道で出会うベク君の友達や親戚が散歩に付き合ってくれる。どんどんと行列が長くなる。まるで病院の教授回診だ。散歩に限らず、家の前にあるベンチに座っていても、隣人やら通りかかりの知人が自分の周りに集まってくる。ベク君の弟などは自分の行くところに必ずついてくる。はじめはホモじゃないかと疑ったくらいだ。これが隊員の言っていた「濃い付き合い」のひとつなのだなと納得。

夕食はやっと暗くなった20時頃から。改めてウオッカとビールの嵐。両国のために、友情のために、健康を祝して、何か理由をつけてそのたびに乾杯だ。大皿3つに盛られたベク家特製プロフに各人、匙をさして食べる。どんぶりに入れたヨーグルトやジュースも回し飲みだ。料理にぶんぶんハエがたかるがもう気にならない。ハエが寄ってくるくらい美味しいのだ。「おしん」の話で一同大いに盛り上がるうちに夜は更けていく。(続く)