チェンライの市場から

「市場に並べられた商品からその国の生活がわかる」と言われます。当ブログを通じてチェンライに暮らす人々の生活を知って頂きたいと思います。 チェンライに来たのは2009年から、介護ロングステイは2018年8月母の死去で終わりとなり、一人で新しい生活を始めました。

日本の援助

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日本の援助

タシケント繊維軽工業大学で品質管理指導を行ってきたSさんがまもなく帰国される。Sさんは長年、繊維会社に勤務された経験を持つ。ウ国の前にはメキシコでもシニアボランティアとして繊維工場の運営、繊維機械の運転指導、保守管理などを行ってきた。この分野のベテランエンジニアである。ウ国へは当初1年の派遣予定であったが大学から懇望され、6ヶ月任期を延長された。任期満了を前に関係者に対してSさんの最終報告があった。帰国前報告は通常はJICA会議室で行われるのであるが、やはり実地に機械の前で説明するほうがわかりやすいというエンジニアらしいSさんの申し出で、報告は派遣先の大学で行われることになった。

日本センター所長、JICAタシケント事務所長はじめSV、隊員など11名が参加。小型バスで大学へ向かう。大学ではSさん、ジェラエフ副学長はじめ大学関係者が門のところで出迎えてくれた。大会議室では7,8人の大学側要人が対面にすわり、Sさんの繊維軽工業大学での貢献について謝辞を述べる。日本側からはJICAのN所長が答礼の挨拶を述べる。ここまでは通常のプロトコールであるが、やはりウズベクだなあ、と思わされたのは謝辞がそのあと延々と4人ほど続き、その間にウズベク関係者の出席がどんどん増えてきて最終的に大学側出席者17名になったことである。また謝辞の内容が、Sさんにはさらに半年いて欲しい、そのためだったら書類は何でも書くとか、半年といわずに1年はいて欲しいとか全員同じことをいう。Sさんの任期はもう1月を切っている。もし延長を依頼するのであればもう少し早く言わなきゃ、と誰でも感じるところだ。

挨拶が長引いて見学時間が少なくなってしまった。まず、繰糸機を見る。英語ではリーリング・マシーンといって蚕の繭から糸を取り出す機械だ。古い日本製の機械だが、Sさんが来るまで壊れたまま、修理もされずほったらかしにされていた。それをSさんが苦労の末、立派に再稼動させた。そして今は最後のご奉公として機械の操作方法を大学側に伝授している。

お湯の中で繭がころころ回りながら糸を解かれていく。1つの繭から1000メートルの糸が取れる。細い糸は何本か縒り合わされてボビンに巻き取られていく。縒り合わせを自動調節して均一な太さの糸を作っていく。縒り合わせによって糸に強度が与えられる。その縒り合わせ回数は1メートル当たり2000回にも及ぶ。Sさんは「この繰糸機はもう日本には残っていない、だからこそ大事に使って欲しい」と愛おしそうに機械を撫でる。繰糸機の銘板を見てみたら1974年製造、メーカー名としてSさんが定年まで勤め上げた会社の名前が入っていた。

ウズベクに来たのはSさんにとって初めてではない。30年前、ソ連時代にウズベクのナマンガンという地方都市で最新鋭の繊維工場建設工事があり、彼はそのプロジェクトに参加した。「あのころから全然、進歩がないのですよ」と肩を落とす。生糸にしろ木綿にしろ、ビジネスのおいしいところは中国に持っていかれる。そして中国からは安かろう悪かろうの木綿、絹製品が流入してきてダブルで美味しい汁を吸われてしまう。それがSさんにとってもどかしくて仕方がない。

実はこの繊維軽工業大学には日本から総額4億4千万円のODAが供与されて、自動刺繍機、コンピュータによる自動デザイン織り上げ機などの製造、印刷機械をはじめとして、色あせ測定器、破断測定器、糸の毛羽立ち測定器、繊維の乾燥度測定器(布地は重量取引されるため旧ソ連では水を含ませた製品を売り込んだりした)、糸縒り状況測定器など繊維に関するありとあらゆる品質管理用機器が揃っている。自分でも初めてみる機械ばかりで興味深い。

でも、測定室や繊維機械室には学生が実習している姿は見られない。ちょうど期末試験の時期だからかと思っていたが、何度か来たことがあるという邦人が「いつもこうなんだよ」という。学生は実習よりも、いつ、どういった機械が発明された、とかその機械の原理は、ということを覚えるほうが大切だと思っているらしい。手を動かすより頭の知識優先という途上国にありがちなエリート教育の弊害がここでもあるのだろうか。

この国は繊維原料の生産国でありながら繊維製品の輸出国になっていない。その原因のひとつに生産者である農民にお金が落ちないという悪しき伝統にある、とSさんは慨嘆する。「この国には問題が多いですよ」といいながらもSさんは「この国での1年半はやりがいがあり本当に楽しかった」、と言われる。

自分の「正式にオッファがあればまたウ国に来ますか」の質問にSさんは「そりゃ、当たり前じゃないですか」とこちらをまっすぐ見て微笑んだ。68歳とお聞きしているがその時の表情は少年のように輝いて見えた。