チェンライの市場から

「市場に並べられた商品からその国の生活がわかる」と言われます。当ブログを通じてチェンライに暮らす人々の生活を知って頂きたいと思います。 チェンライに来たのは2009年から、介護ロングステイは2018年8月母の死去で終わりとなり、一人で新しい生活を始めました。

海外の日本国民

チェンライ花祭りから

蘭の花

種類が多い

やはりきれい

自分の好み

黄色い蘭も

 

 

海外の日本国民


■海外在留日本人数
平成元年の海外在留日本人数は長期滞在者、永住者を含めて60万人弱でこの数は年々増え続け、令和元年には140万人を越えた。でもこれ以降、感染症の影響もあり、140万人を割っている。
まあざっくりと海外に住む邦人は140万、日本に住む国民には一人当たり特別定額給付金10万円が給付された。当時、日本に帰国していた自分も給付を受け、PCを買った。でも海外に住む邦人は日本国民でないのか、給付の対象にならないのか、という声が出て、140万人X 10万円、1400億円の予算措置がとられた。でも海外在留邦人に給付金はわたっていない。いろいろ理由はあろうかと思うが、在外公館には公平に正しく10万円を該当者に渡す手段がないからだろう。在留邦人と言ってもこの数は現地で在留届を出している人に限られる。

在留届は義務ではないからチェンライでも長らく住んでいながら届を出していない人はいる。その人は当然、給付対象にはならない。また、在留届を出してあっても住民票が日本にあって、日本で給付済みの人もいる。どうやって2重給付を防ぐか。
自分としては在外公館に出頭した邦人に、マイナンバーで2重給付でない旨を確認し、旅券への給付済み印と交換で現金で渡せばいいと思う。でもマイナンバーはない、在留届もない人はどうなるか。そういう人は給付通知も受け取れない。

通知がなかったから給付を受けられなかったと文句を言う人は必ず出てくる。誰もが不平を言わない公平な給付法はなかなかむつかしい。その前に在外公館がこんな面倒な作業をするはずがない。だから予算措置がとられても実際の給付は行われていない。

■権利の追求と行使
在留邦人を見捨てるのか、という声はあると思う。でも平成10年に改正された公職選挙法で海外在留日本人も国政に参加できることになった。しかし在留邦人140万人の内、在外投票人名簿に登録しているのは10万人、そして実際に投票した人は2万人と有権者の2%以下である。海外在留日本人は票にならないのだから、政治家が親身になるはずがない。

在外選挙人名簿への登録も簡単ではない。住民票のある市町村と在外公館で書類のやり取りや確認作業がある。在外選挙登録証は市町村から外国の住所に送付される。手間とお金がかかっている。チェンマイ総領事館に投票に行ったことがあるが、数人の係員、バイトの人が所在なさげに、偶に来る老人を見ていた。国民の権利とはいえ、税金の無駄遣いだよな、という表情。海外在留日本人の支持で当選、という代議士が2,3人出るくらいに投票率が高くならない限り、海外在留日本人軽視は続くのではないか。

タイでは国政参加の投票は権利でなく義務である。投票実績がないと立候補権はないし、銀行からの借り入れにも支障をきたす。日本も投票の義務化とネット投票を組み合わせれば、海外日本人票も多くなるだろう。

■翻ってタイでは
前述の通りざっくり海外在留日本人数は140万人、そのうち米国に45万人、中国に12万人、豪州に10万人、そして4位のタイは7万6千人が在留している(外務省海外在留邦人数調査統計・令和元年版)。

タイの7万6千人の内、バンコクに5万5千人住んでいる。チェンマイは3千人強、といったところ。この数字はタイに住んでかつ在留届を出している人の数である。届を出さずに居住している人、1年に何度もタイ・日を往復している人を加えると、タイには常時、10万人以上の邦人が住んでいると言われている。

チェンライ県在住の邦人は300人弱、在留届を出していない人加えても600人ほどではないか。日本から来たテニスの女子プロが、「えー、600人もいるんですか」と驚いていたが、初めてチェンライに来た人にとっては日本人がいるだけで驚きらしい。

バンコクでは30種類以上の和文のフリーペーパーが発行されているというし、感染症前にはチェンマイでも複数のフリーペーパーが出ていた。日本人の集まりはバンコクでは高校、大学の同窓会を始め、無数にあるし、チェンマイでも目的の違いによって4つの日本人会がある。チェンマイの日本人会の組織率は居住者の約半数、それに引き換え、チェンライ日本人会の会員数は60名強で居住者の2割程度。会員の平均年齢は70歳を越える。バンコクチェンマイでは概ね大使館からの情報は邦人間で共有されるが、チェンライではPCのない人もいる。

総領事館でも日本人会でもコンタクトがない以上、何かの時は救いようがない。そういう日本国民にも目配りするのが政治だ、ともいえるけれども。

衝撃の一冊

アチャナ仏

同上

ワットサーシー、スコタイ歴史公園内

ラームカムヘーン大王、誰も本物を見たことはない

ラームカムヘーン大王碑文(レプリカ)

ラーマ4世

 

 

 

衝撃の一冊

■「タイのかたち」
日本にいた時、最も衝撃を受けた本は、大阪外国語大学元学長、赤木攻先生の著書「タイのかたち」である。

多くの人は13世紀に花開いたスコタイ王朝がタイの始まりと信じている。スコタイ公園の微笑をたたえたアチャナ仏を思い浮かべる人も多いだろう。

タイ族が13世紀に立てたスコタイ王朝は3代目大王ラームカムヘーン(在位1279年頃 - 1298年)の代に黄金期を迎えた。ラームカムヘーンは最初のタイ文字を定め、中国との貿易も行われた。スコタイ王朝は15世紀まで続くが、スコタイ王朝の血を引くアユタヤ王朝の王子によって引き継がれる形で消滅する。

スコータイの歴代王はポークン(個人的な友情で治める君主、人民を保護し、悪を適切に廃する父親のような人であると説明される)と呼ばれていた。このポークンの思想(理想的君主像)はラームカムヘーン大王碑文にも説明されており、同碑文ではラームカムヘーンが、裁判も逐一公明正大に行い、悩みある住民の与太話を聞き解決を図ったとの旨が書かれている。この思想は先代のプミポン国王にも重なる。

スコータイ王朝は、仏教思想が花開いたタイの仏教の黄金期と見なされている。クメール建築とスリランカ様式を融合させたスコタイ様式と呼ばれる建築物が各所に建てられた。仏像美術ではスコータイ仏と呼ばれる仏像が造られた。これは緩やかな女性的な曲線に特徴される。スコタイ歴史公園のアチャナ仏はこの典型であろう。

■スコタイ王朝
ところが、赤木先生によると、栄光のスコタイ王朝は存在しなかった。スコタイ様式の美術、建築、またラームカムヘーン大王碑文、リタイ王碑文、三界経などタイ文字の発祥とされる遺物もすべて19世紀に作られたものという。スコタイやカンペーンペッにタイ族土豪国があったことは遺跡ではっきりしているが、なんせタイ文字ができたとされるのが大王碑文のできた13世紀であって、それ以前は文字がないのだから記録がない。シナから遠かったので、史書にはシャムの土豪国を詳しく書いてもらえなかった。

それをいいことに、ではないが19世紀にラーマ4世と取り巻きの王族により、シャムにも西欧にも負けるとも劣らない素晴らしい王朝があり、その王朝の伝統、歴史を引き継ぐのが現バンコク王朝(チャクリー朝)という伝説が作られた。

自分もスコタイ王朝の栄華をガイドブックで信じ込んでいたから、この学説には心底、吃驚した。韓国の発展は36年の日韓併合のお陰、20万慰安婦はもちろん、韓国5千年の歴史は全くの作り話だった、と真実を知った韓国人もこんな感じか。19世紀のタイ(シャム)は東のフランス、西のイギリスに国土を削り取られ、国の存続も危うかった。英仏の植民地の緩衝国として何とか命脈を保っていたものの、せめて歴史、文化で欧米と対等に立ちたい、その気持ちはわからないでもない。

■典型的なタイ人はいない
赤木先生の「タイのかたち」は「序章タイにはタイ人はいない」から始まる。自分もチェンライのスーパーで、いろいろな顔、体型、肌の色をした人々を眺めるうちに典型的なタイ人の顔はないということに気付いた。

タイの前に2年暮らしたウズベキスタンも先人から「ウズにはシャラポアから朝青龍までいろいろな顔の人がいるよ」と聞いていた。確かにウズにはアラブ人から蒙古系、スラブ系といろいろな顔の人がいた。ウズは絹の道の要衝の地を抱え、マケドニア、アラビア、ペルシャ突厥、蒙古、ロシアなどの異民族が行き交った。行き交ったといえば聞こえはいいが、基本的に男はみんな殺され、女は戦利品、要するに歴史的に混血が進んだということだ。

タイも地続きで、ビルマ、クメール、ラオスとタイは勝ったり、負けたりの戦争を繰り返し、その間に中国雲南からも人がやってきた。タイ人の先祖をたどるとクメール系、モーン系、ムスリム華人、ラーオ系、タイ・ユワン、ミエン、インド系、ベトナム系、プータイ、タイ・ヤイなどなどきわめて多様であるが、これがタイ人という典型的なタイ人はいない。これが赤木先生の結論である。タイ人はいないが、ラーマ4世が「タイ民族」という概念を導入し、100年かけて「タイ」を作り上げた。ともすれば民族自決に走り、バラバラになってもおかしくない地域を一つの国にまとめるには、先人の知恵と努力があったに違いない。

先祖もずっとこの島国に住んでいて、生まれながらに日本人であることを疑わないですむ日本国民は幸せ、と思う。

塩の買い出し

塩の井戸、まだ現役

塩の製造設備

ストックは十分

品揃えが増えた

ゲストハウスのベランダから

同上

 

塩の買い出し

■古代塩

チェンライ土産として、熱狂的に受け入れられているものが2つある。一つは我々が愛飲している花園珈琲、もう一つはナーン県ボークルアの塩である。珈琲だって塩だってそんなに変わりがないんじゃないの、という向きもあるだろうし、自分もそう思う。でも日本の友人、知人の中には兄や自分が持ち帰る珈琲豆と塩に信仰に近い愛着を持つ人がいる。

次男が何年かぶりにチェンライに遊びに来ることになった。遅ればせの短い夏休みである。彼は土産として塩を持ち帰りたいという。でも塩を手に入れるためにボークルアまでの1泊旅行をする気は無いらしい。確かに貴重な休暇だ。「あー、いいよ、オレが車で買いに行ってくるよ」。いくつになっても子供に甘い親で困ったものである。

ボークルアの塩については何度か書いている。チェンライから山道を300キロ、ナーン県のラオス国境に近い谷あいにボークルアの村はある。ボークルアとはタイ語で「塩の井戸」の意味だ。ここには塩の井戸があり、古来より井戸から汲み上げた塩水を煮詰めて塩を生産している。その昔、塩は貴重品だったから、ボークルアの争奪戦が今のラオス、タイ、カンボジアで繰り広げられたらしい。

ボークルアの塩水は、60億年前の海水が閉じ込められたもの、とか90億年前にかつて海だった頃の海水が岩塩となりそれが地下水に沁み込んだ、といった説明がネットに上がっている。でも地球が誕生したのが46億年前と言われているからこれは間違いだ。3億年前、古生代の海水が閉じ込められたものと以前のブログに書いている。出処がわからないが3億年の古代塩と皆には喧伝している。

■土産店の進化

ナーン県はチェンライ県の隣にある。ナーンとチェンライには別の王国(土豪国)があった。それもそのはず、両県は険しい山で遮られていて、攻め込むのは簡単でない。

朝、家を出て昼過ぎにやっとボークルアに着いた。土産物屋や食堂が立ち並ぶ一角を過ぎると左手に井戸がある。掘っ立て小屋には塩水を煮詰めるための竈と大鍋があって見学できる。雨季で薪集めが大変なので製塩作業は休み。原料の塩水はタダ、薪も山から取ってくるからタダ、コストは塩を入れる袋代くらいか。塩の釜炊きを見たことがある。薪で24時間煮詰めると釜の底に塩が溜まってくる。この塩をザルに上げ、水気を切る。精製塩と違ってザルの塩にはマグネシウムカリウム、カルシウム、ヨードなど不純物が微量含まれるが、これらが古代塩の味をまろやかにしているそうだ。

10年前は2キロ入りの塩しか売っていなかったが、今回はきれいに小分けされ、説明ワッペンが張られた各種の袋、瓶があった。更にはフレーク状に結晶した古代塩もある。また古代塩を使用した漬物も販売されていた。それなりに営業努力を重ねているものと見える。週末だったせいか、バンコクやペッチャブリなど他県ナンバーの車も来ていた。観光名所として更に多くの人が訪れるようになるかもしれない。

■プアで一泊

塩は買ったしどうするか。ボークルア近辺には国立公園があり、リゾートホテルもあるが、この日はボークルアから数十キロ、チェンライ寄りにあるプアの街に泊まることにした。プアにもその昔、王国があり、街の入り口には城壁の一部が残っていた。

プアにはいくつかのホテル、GH がある。飛び込みで適当なGHにチェックイン。あとで知ったが口コミランキングで8.8の高評価を得ているだけあって清潔で気持ちのいいGHだった。3階のベランダからはラオスに続くアジアハイウェイ、広い青田、その向こうには雲がたなびく山が見えた。まるで東北の温泉郷にいるみたい。

GHお勧めの食堂方面に歩いていったら土曜市の真っ盛り、女子中学生や親子連れで結構な人出、露店はチェンマイやチェンライと比べて食べ物の店が多い。その上、値段はチェンマイの約半額の世界だ。露店の裏手は広場になっていてブルーシートの上に何十もの座卓が置かれている。みな、露店で買ってきた食物をここで食べる。蟹の空揚げ、北タイの発酵ソーセージ、ネーム、鶏の丸焼き等を並べて兄とビールで乾杯、隣の座卓では女子高生が4人楽しそうにパッタイを食べている。美人ではないがこの年頃の子の表情は非常に豊かだ。澄ましてるとと思えば眉間にしわを寄せ、その直後に目を見張って笑い転げる。その横の座卓では幼児を連れた家族連れ、子供はじっとしていない。とにかく、見ていて飽きないのだ。チェンマイに比べ素朴で心が安らぐ。

そういえばボークルア、プアではファランを一人も見かけなかった。外人がいない、はタイでは秘境と言っていい。行くなら今のうちです。

感染症対策緩和

チェンライ郊外

青田が広がる

バナナがなければ日本と同じ風景

田植えをしたばかり

結構育っている

みな同じ日の撮影

 

感染症対策緩和

■おかしな水際対策

昨年の11月にタイに戻ったが、入国に際してはタイランドパスというビザと共にタイの医療保険の付保、並びにバンコクで1泊の隔離宿泊が必要だった。更に72時間以内のコロナ陰性証明書(英文)の取得も要件だった。

今はワクチン接種証明書があれば何事もなく入国できる。ワクチン接種をしていない人は陰性証明書で代用できる。タイへの入国は簡単になったが、日本への帰国に際しては陰性証明書が必要だ。観光に行ってもタイでPCR検査を受けるのが面倒という人もいた。しかしながら9月7日から帰国前検査と陰性証明書の提出が、3回目のワクチン接種を済ませていることを条件に免除されることになった。

タイの1日あたりの新規感染者数はこのところ2000人を下回っているが、これはタイ政府が観光客を呼び込むために操作している数字だと思う。自分の含め、周りでは感染症に罹ったという人は多い。また、8月にチェンマイに観光に来た邦人の中には、帰国前のPCR検査で陽性となり、帰国便をキャンセルせざるを得なかった人が何人も出ている。

ワクチン接種を3回済ませていれば日本に帰国できることになったが接種の3回はどこで決まった数字なのか。2回ではだめなのだろうか。3回接種者は2回接種者に比べ、感染リスクが格段に低いという数字があるのだろうか。4回接種していても岸田首相のように感染する人もいる。世界でもワクチン接種率が格段に高い我が国で第7波が来ているのだから、ワクチン接種と感染との因果関係ははっきりしていない。ウィルスはどんどん変化していくのでワクチンは新型の感染症には効かないという話もある。3回も4回もワクチン接種していても罹る人は罹る、感染者であっても3回ワクチン接種済みならば問題なく日本に入国できる。こんなにいい加減な水際対策とは何だろうか。

 

■指定替え

安倍元総理の退陣の時から感染症の2類から5類への指定替えという話はあった。岸田首相も2類から5類への指定替えをすると表明していたが、未だにそうなっていない。タイでは感染症はただの風邪という扱いになっている。熱や激しい咳症状のある人は一般病院で熱冷ましや咳止めの薬を貰う。それだけ。日本と同じような検査をタイで行えば何万もの陽性者が出ると思うが、意味のない全数検査などしない。タイの保健当局者は感染症で死亡したのは老齢者で且つ重篤生活習慣病を持っていた人がほとんど、と言っている。要するに感染症が主たる死亡原因でないと言っている。日本もほぼ同じ傾向と思うが、死亡者の年齢別内訳や死亡に至った主病因はあまり公表されない。

日本では2類になっているため、一般の病院、医院では感染者を診ることができない。患者を診る病院は限られ、ベッド数も少ない。門前払いを食わされる恐れがあるから、熱が出ると救急車を呼ぶ。それで救急隊員は休む暇がないほど忙しい。大変だ、大変だ、と大騒ぎする前にどうして他の国と同じように5類扱いに、つまりインフルエンザ並にしないのか。そうすればもし熱が出たら近くの医院に行けばいいから救急車を呼ぶ必要がなくなる。

また2類だと検査、受診、入院は無料、つまり国費でみてくれるから安易に限られた病院に押し掛けているのではないかと思う。

 

■全数把握

岸田首相は感染者の全数把握を見直すと発表した。感染症法は、感染症を診断した医師に対し、すべての患者の氏名や年齢、連絡先などの情報を、「発生届」として保健所に提出するよう義務づけている。これは医療関係者に大きな負担となっており、PCへの打ち込みより医療に専念させてほしいという現場の声を受け、全国知事会が国に要望していたものだった。それで今回の見直しでは自治体の判断で「発生届」が必要とする対象を、高齢者や重症化リスクが高い人などに限定できるようにした。

ところが、東京都や愛媛、徳島県などでは全数把握は軽症者の重症化見落としにつながるなどの理由で全数把握を続けるという。自治体では決められないので国で指針を決めろとも言っている。どっちも責任を取りたくないからだが、医療現場の負担軽減はどうなっているのか。これも2類から5類に指定替えをすれば解決する問題だがなぜそうならないのか。それは2類にしておいた方が利益になる、という集団があって、その利益集団が欧米やタイではすでに常識となっている「アレは風邪と同じ」とはどうしても言いたくないのだろう。

ここ3年、例えば感染者80万、死者は40万人とか、どうしてあの時は、と思うことがある。王様の耳はロバの耳、という人が出てきてもいい頃と思うのだが。

チェンマイは文化都市

サンデーマーケットを歩くファランの家族

どれにしようか、目移りする子

絵を並べている所

お土産用か

お寿司の店、チェンライよりおいしそう

カウパットの露店

 

 

チェンマイは文化都市

チェンマイのナイトマーケット

8月は3回続けて週末にドライブ旅行した。チェンマイに2回、ナーン県のプアに1回である。買い物とか慰霊祭とか理由はあったが、隣県とはいえ泊りがけ旅行はタイに戻ってからは数えるほどしかない。概ね、週日はテニス、土日は家で音楽を聴いたり、ユーチューブを眺めたりの静かな生活だ。退屈かと言われればそうかな、とも思うがこの年になって忙しく動き回るのは事故のもと、などと退嬰的な気持ちになっているのかもしれない。

用があって出かけるにしろ、旅に出ればそれなりの刺激がある。北タイに10年以上住んでいてもまだ行っていない観光名所はたくさんある。ネットで一通り見ているはずだが、実際に訪れてみるとやはり感じるものはある。人、木石にあらねば、時にとりて、物に感ずることなきにあらず、だ。

これまで総領事館とか製造元に日本蕎麦を買いに行くとかで、チェンマイで週末を過ごすことがなかった。戦没者慰霊祭が行われたのが8月15日の月曜だったので、前日にチェンマイ入りした。チェンマイにはいくつもナイトマーケットがある。この日は日曜なのでターペー門からワット・プラシンに延びるサンデーマーケットが開かれる。これに行ってみようと思っていた。

チェンマイのナイトマーケットというとピン川に近いチャクラン通りのナイトバザールが有名だ。大小のホテル、ゲストハウスに近く、ピン川沿いには高級レストランが並ぶ。バザールには1キロ以上にわたって露店が並び、お土産物はここで全て揃うというので、ツーリストには人気の場所であった。過去形であるのはまだ観光客が戻っていないからだ。ナイトバザールから旧市街、ターペー門方向へ向かうロイクロー通りにはビヤバーが並び、以前はお姉さんが道路まで出てきてツーリストの手を引っ張っていたものだが、8月に行った時は閉店しているビヤバーも多く、開いている店でもホステスさんの数が少ない。彼女たちもあきらめ顔で自分に「ニーハオ」と気のない挨拶を投げかける程度。

 

■サンデーマーケット

ナイトバザールは年中無休でツーリストには便利、観光客専用といえる。それに引き換え、ターペー門のサンデーマーケットは日曜日の夜だけ。どちらかというとチェンマイ市民のためのマーケットと言われている。

ネットを見ると4時半ころから始まり、6時、7時となると買い物ができないくらいに混みあうとある。4時半に行ってみた。テントや陳列台を組み立てていて、半分くらいしか露店が出ていない。。まだ陽が高く、人出もちらほらだ。たださすが観光都チェンマイファラン(白人)の家族連れが目立つ。乳母車を押しているが、それだけ通路が広く、安心して歩けるということだろう。露店は民族衣装、山岳民族のバッグ、石鹼彫刻と並んで清涼飲料、ケーキ、果物ジュースなど、焼き鳥、ソーセージ、餃子、焼きそば、お好み焼き、たこ焼き、お寿司など雑多な店がある。またお寺の境内が一種のフードコートになっており、ここで皆、思い思いの食事をとる。

自分もカウパット(タイチャーハン)を買って食べた。飲み物を売っている露店で「ビールはないの」と聞いたが「ここはお寺の境内だからビールはありません」。葷酒 、 山門 に入るを許さず、はタイでは厳格に守られていることを忘れていた。

 

■露店の違い

チェンライにもナイトバザールはあるし、土曜市には時々行く。チェンマイのサンデーマーケットを歩いてみて、同じような露店でありながらチェンライのそれとは何か違うことに気付いた。チェンマイの露店の品物の並べ方が垢抜けている。見た目、きれいですっきりしているのだ。またチェンライにはない風景画や仏画など絵画を売る露店がいくつかあった。売っているところを見るとチェンマイでは絵を買う人がいるのだろう。露店のセンスの良さ、品揃えから見て、チェンマイはチェンライよりもかなり文化度が高いのではないかと思った。

これで、チェンマイからバンコクに行けば、更に店も歩く人も垢抜けてくるのだろう。バンコクから東京に行けば文化度はさらに跳ね上がる。そういえば東京での1年8カ月、心が躍動するような経験がいくつもあった。自分から九州や四国、京都を旅した。求めればワクワクするようなイベントはいくらでもあったように思う。

チェンライで毎日テニスをし、ネットを眺めて退屈していない毎日だ、と強弁してもやはり田舎の侘び住まい、読書もせず映画も見ず、我が風体、風貌は北タイの村夫子然としたものになっているに違いない。

気力・体力・知力

 

チェンマイ国立博物館から

同上

同上

同上

同上

同上

 

 

気力・体力・知力

■まずは体力

曽野綾子さんは、「人は、一度に死ぬのではない。機能が少しずつ死んでいるのである」と書いている。年を取ってくるとその通りだなあ、と思う。先ず、歯が悪くなる、次に目が悪くなって読書が苦痛になってくる、異性を相手に、は、苦痛ではないがチャンスがない。いや、チャンスがあっても若い時のようには行かないだろう。俗にいう「ハメマラ」だ。動物なら歯がダメになった時点で餌が取れなくなるからそこで死んでしまう。人間は入れ歯、メガネ、精力剤などがあって、命は長らえることができる。でもそれも永久に続くわけではない。体中の機能が次第に衰えて終末が来る。

自分も年相応に体力の衰えを感じる。週5日のテニスは続けているが、10年前ならば追いつけた球に半歩及ばない。相手のサーブを受けるとき、相手の球がネットに引っかかってから体が動き出す。1秒とは言わないが、球に対する反応が少なくとも0.5秒は遅くなっている。プロなら致命的だ。年貢の納め時もそれほど先ではない。

旅に出る気力がわかない、と書いた。気力は体力と関係している。体力が衰えると気力も萎えてくる。気力が充分でなければ判断力も落ちる。果断な決断はできない。先延ばし、安全策に靡きがちだ。旅は少し気候がよくなってから、スクータは事故が怖い、これは体力の衰えと関係しているのかもしれない。高名な経営者は重要な経営判断を下すにあたって、今の健康状態はどうか、を自問自答するという。歯が1本痛いだけでも人は正常な判断を下すことができない。気力、判断力は健康な体に宿る、か。

 

■知力

体力がなくなると知力も落ちる。本を読んでも頭に入らない、人に会って刺激を受けようという気にもならない。精力的にブログを更新していた人が、ふっつりとブログを休止する。同じことばかり書いて、いくらか自己嫌悪を感じているところに「繰り返しで読む気にならない」といったコメントを書かれる。それでやる気をなくしてブログをやめるといったケースが多いと聞く。知力が薄れ、ネタが切れる、気力もその源である体力も無くなる、興味は自分の病気だけ、となれば多少なりとも頭を使って書くことが億劫になると思う。

ブロガーを卒業することは、それで生計を立てていない限り何も問題はない。もう私は疲れ切ってしまって書けません、何卒お許しください。こんなことを書いてブログをやめる日も遠くない。ブロガーは二度死ぬ、一度はブログをやめた時、二度目は本当にこの世を去る時である。2度死のうが3度死のうが、誰にも迷惑は掛からない。幾ばくかの葬儀費を用意してあるし、自分の気楽な点はここにある。

 

■直感とストレス

自殺する小説家が多いのは、やはり体力、気力、知力において限界を感じるからだろう。書けなくなる、はブロガーと違って、小説家にとっては自分のすべてが失われるということだ。三島由紀夫川端康成は生まれ変わったら絵描きになりたいと言っていたとか。梅原龍三郎安井曽太郎などの画家も生まれ変わるなら絵描き、と言っている。

横尾忠則さんは文章を書くにあたって、出だしをどうしようとか、流れはどうか、などと歩きながらでも考えているという。だが、絵に関しては何も考えない、キャンバスを前にして初めて、ここに線を一本、色はこれ、とイメージが湧いてくる。つまり、絵は直感の世界で、描くことに何もストレスを感じない。つまり描けないことはない、逆に完成した絵はない。横尾さんにとって、絵とはおかずをたくさん残した食事のようなものだそうだ。

絵描きが長生きするのは要するに「考えない」からだという。スポーツマンも考えない職業かもしれないが、絵描きと違って勝ち負けがあって、その結果によって引退の時期もある。絵描きには勝ち負けはもちろん、本来は儲かる、儲からないも考えていないのではないか。

ピカソシャガール、キリコ、ミロ、ダリなどの絵描きはみな長生きしているのは心がからっぽの状態で仕事をしたから、という。つまり仕事のストレスがない。それに年をとっても絵は描ける。キリコが90歳になって描いた絵は、線がヨレヨレと曲がっているそうだが、かえってその線の崩れ方が素晴らしいという評価を得ている。

絵を描くのが趣味という職場の先輩がいる。80歳を過ぎても元気に写生旅行に行かれている。溌剌とした老後は絵と共にある。

テニスボールをヨレヨレと追いかければ、みっともないだけでなくストレスを感じる。かといって今から絵を始めるには遅いし、どうしようもないか。

 

博物館見学

チェンマイ国立博物館本館正面

入り口にある釈迦座像

ランナーの聖仏、プラ・セン・サン

同上

触地印の釈迦像

館内展示

 

博物館見学


チェンマイ国立博物館
チェンマイ国立博物館は北部タイを代表する博物館と言われている。自分の住むチェンライにはチェンライ国立博物館はない。市内からバスで1時間半、メコン川に面するチェンセーンにチェンセーン国立博物館がある。ナーン県、ランプーン県にも国立博物館がある。概ね、県内で見つかった仏頭、仏像が展示されている。昔は王国であったから王族の遺物等も展示されている。

チェンマイ国立博物館には10年ほど前に行ったっきりだ。50年ほど前に完成した博物館で、皇太子時代の上皇上皇后陛下とお二人をここに案内したプミポン国王の写真が飾られていたという記憶がある。何が展示されていたか記憶が定かではない。
動物園、植物園、スネークセンター、ドイステープのお寺など、チェンマイの観光名所は結構回っているが、日本から来た友人と博物館に行ったことはない。博物館はチェンマイ環状線11号号線沿い、名刹、ジェット・ヨット寺院の並びにある。いつも通り過ぎるだけであったが、たまには博物館で勉強しよう。

■あまり人気がないのか
チェンマイ国立博物館の口コミは少ない。歩いていくには遠すぎるし、バスの便もない。高速道路ではないが11号線は80キロ以上で車を飛ばしているから、ソンテウを拾うことも難しい。タクシーアプリを駆使できる観光客でなければ博物館の行き来は難しい。

11号線の外側を通り、ジェット・ヨット寺を左に見て徐行に入る。うっかりすると博物館入り口を通り過ぎてしまう。博物館の敷地は広く、本館以外に図書館や研究施設がある。本館前は庭園となっていて、大きな池をまたぐ太鼓橋には日本のイメージが感じられる。

本館はランナー様式の堂々たる建物だ。入り口のドアを押すと中は広いエントランスとなっていて、正面に金色仏が鎮座して来訪者を迎えてくれる。左に受付があった。マスク着用を促され、慌ててマスクを取り出す。入場料は英文パンフレットでは100Bとなっていたが、一部改修中のため無料だった。タイの国立博物館の入場料は、概ね外人100B、タイ人20Bの2重価格となっている。
肩下げ鞄等の荷物は受付後ろの無料ロッカーに入れる。展示物の撮影はフラッシュを使用しなければOKとのこと。タイでも携帯の普及につれて撮影可能の施設が増えてきているように思う。

まず、エントランス正面の釈迦座像をじっくり見る。14,5世紀のランナー仏、触地印を結んでいる。ブロンズ製、金の彩色が施されている。ランナー仏は素朴ではあるが精神性に乏しいといわれている。でもこのブロンズ像からは珍しく品格を感じた。
入って左の展示室に大きな仏頭がライトアップされている。ランナーの聖仏、プラ・セン・サンである。14,5世紀のランナー仏、ヤンクワン寺から発掘されたという。この仏頭もなかなかいい。仏頭の両側にある展示ケースには大小、様々な仏像が並べられている。表情も様々だ。

ランナー様式というが統一された仏像彫刻の流れがあるようには思えない。いわゆる仏師の名前など残っていないし、仏師の家系など聞いたこともない。北タイの磁器、セラドン焼きや素朴な陶器、ヴィアンカロン焼きの皿も展示されているが、陶工の家系も窯も歴史から消えている。技術を重視し、職人を尊敬する歴史を持つ国は日本以外にないのだろうか。

旧石器時代から
仏教関係の美術品の他には陶磁器、王室の家具、王様の金刺繍のガウンなどが展示されている。また他の国立博物館と同じように先史時代の打製石器や人骨などが展示されていた。人骨は土の中に半分埋まっている状態、この展示方法はタイ全国共通のように思われる。ここの人骨はレプリカと思うが県によっては実物の遺骨をそのまま展示している。先祖でも何でもないいわば馬の骨みたいなものだから遺骨に畏怖や畏敬の念は全く持たないのだろう。

館内での写真撮影は自由であるが照明の関係で写真が撮りにくい。またタイ語と共に英語の展示説明文があるのは助かるが、どう見ても石仏であるのに「ブロンズ製」という説明文があった。展示物を入れ替えた時に説明文はそのままにしたのだろう。日本の博物館と比較してはいけないが、それにしてもやっぱり日本は、と感じてしまった次第。

尚、2階建ての広い館内には2,3組のタイ人がいただけ、旧市内を闊歩しているファランは全く見かけなかった。各所にベンチがあるし、3Gやジオラマ、オンデマンドUチューブなどAI機器からの情報も随所で得ることができる。北タイの歴史を概観できるし、今は無料だから行ってみる価値はあると思う。