チェンライの市場から

「市場に並べられた商品からその国の生活がわかる」と言われます。当ブログを通じてチェンライに暮らす人々の生活を知って頂きたいと思います。 チェンライに来たのは2009年から、介護ロングステイは2018年8月母の死去で終わりとなり、一人で新しい生活を始めました。

法力を目の当たりに

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御厨人窟

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最御崎寺

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太龍寺の麓

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太龍寺本坊の桜

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太龍寺境内にて

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舎心ヶ嶽




法力を目の当たりに

■心に余裕
ひょいと思い立って四国へ行った。3月14日に発って、19日に戻ってきたから旅行からもうひと月過ぎてしまった。春、まだ浅い頃であったが、桜がほころび始め、日本の自然はいいなあ、と思いながらの旅だった。東京に戻ったら桜があちこちで咲き始め一気に春到来となった。まさか日本の桜を2回も楽しめるとは思ってもいなかった。

我が家の隣は小公園となっている。そこに大きな桜の木があり、二階の窓から夜桜を見ながら酒を飲むことが出来る。昔は印刷工場だったが区画整理があって児童公園となった。公園にどんな木を植えるべきか、町内会に品川区から相談があった。その時、母が、桜がいいと町内会をまとめて桜になったと聞いている。公園のベンチで缶ビールを片手に桜を仰ぎ見ている若者を見ると、なんとなく嬉しくなる。

昨年の春は、もしかしたらチェンライに戻れるのでは、と航空券を予約したり、キャンセルされたりと心忙しく、桜の花をめでる余裕がなかった。そして今、一生、このままでもいいかなと思うくらい東京生活を満喫していると、近所の藤やつつじの花が一層鮮やかに見える。去年もこんなにきれいに咲いていたっけ?

御厨人窟、ひと月違いで
3月の旅行は室戸の御厨人窟と阿波の太龍寺、主としてその二つを回った。弘法大師ゆかりの場所である。大師様が著した「三教指帰(さんごうしいき)」にはこの2ヵ所で修業した旨、記されている。御厨人窟は落石の恐れがあり、バリケード封鎖されていて近づくことが出来なかった。でも今は…、以下、友人の送ってくれた4月11日高知新聞の記事から。

御厨人窟あす入洞再開  室戸市 落石防止10ヶ月ぶり
【室戸】 落石の危険があるため立ち入り禁止になつていた御厨人窟と神明窟への入洞が12日、10ヶ月ぶりに再開される。青年期の空海が修行した場所と言われ、多くの観光客や遍路が訪れていた。ただ2012年と15年に落石が確認されたため、市が入洞を禁止。入り口上部に落石を防ぐ金網を2重に張り対策を施して19年4月に再開したものの、小石までは防ぎきれず昨年6月に再び入洞を禁止していた。観光客や住民からの入洞再開要請を受けた市は3月、さらに目の細かい(網目1センチ)プラスチック製ネツトを既存の金網の下に張った。市は「定期的に落石がないかを確認して、安全確保に努めていく。小さな落石にも十分注意してほしい」としている。入洞は午前8時~午後5時。

(引用終り)

残念、ひと月違いで入洞できなかった。

■失せ物祈願成就の時
太龍寺のあと阿波最東端の阿南市に泊まり、翌日、徳島を訪れ、高徳線で高松へ、高松で最後の夜を過ごし、翌朝、高松空港から成田へと戻った。徳島のことはいずれ書くが、高松空港で大師様の法力を実感することになる。

高松空港で、ジェットスター成田行きのチェックインを行った。係員のお姉さんに、期待はしていなかったが、「もしかしてスマホ、届いていないでしょうか。メーカーはギャラクシー、はげちょろけの合成皮革のカバーがついているのですが」と、数日前高松へ来た時の搭乗券を見せた。後ろにチェックインの列が出来ていたし、お姉さんは、あとで調べますから後方の席でお待ちください。

そろそろ搭乗待合室に行く時間だなあ、と腰を浮かしかけたところへ、お姉さんが二人、息せき切ってやってきた。「お客様、もしかしたらこのスマホではございませんか?」。しょぼい茶色カバー、黒いイヤホーンが巻き付いている。間違いない、諦めていた我がスマホだ。あったー!

成田から高松への便はほぼ満席で自分の席は緊急脱出口のすぐ横だった。いつもは肩に下げているバッグを客室乗務員に取り合上げられて、頭上の棚(オーバーヘッドビン)に入れられた。到着時、そのバッグを棚から取り出すときに、中に入っていたスマホが滑り落ちたらしい。

ありがとうございます、よかったー、と大喜びする自分に合わせて、おねえさんは「あはは」と笑った。「あなたは正直に自分のスマホと言いました。ご褒美にこのiPhoneも差し上げましょう」とまでは言ってくれなかったが、彼女らがまるで女神さまのように見えた。

これも最御崎寺太龍寺スマホが出てきますように、とお賽銭を上げての「失せ物祈願」が成就したということだろう。恐るべし、弘法大師様のご功徳、法力。「終わり良ければ総て良し」という。大師様のご加護でその通りに旅を終えることが出来た。

「おん あぼきゃ べいろしゃのう まかぼだら まにはんどま じんばら はらばりたや うん」(真言宗、光明真言

弘法大師の霊跡(5)

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石段下から本堂を臨む

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本堂内の絵馬、ぼけ封じも

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本堂

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幕末建立の多宝塔

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 舎心ヶ嶽入への道、ここは傾斜はあまりない

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 東を向く大師様

 

弘法大師の霊跡(5)

■西の高野
「西の高野」と称するお寺は四国霊場第二十一番札所、太龍寺の他に、つがる市弘法寺五島列島大宝寺平戸市最教寺長門湯本温泉の大寧寺などが知られている。中には真言宗でないお寺もあるが、厳かな古刹の佇まいが高野山を思わせるのだろう。

さて、太龍寺四国山脈の東南端、標高618メートルの太龍寺山の山頂近くにある。樹齢数百年余の老杉の並木が天空にそびえ、境内には古刹の霊気が漂う。

以下、太龍寺ロープウェイのパンフから。
延暦12年(793)19歳の弘法大師空海が、太龍嶽(舎心嶽)の上で百日間にわたり「虚空蔵求聞持法」を修法なされたことは、大師24歳の時に著された「三教指帰」の中に「阿国太龍嶽にのぼりよじ土州室戸崎に勤念す 谷響を惜しまず明星来影す」と記されている。つまり、太龍寺室戸岬は青年期の大師の思想形成に重要な役割を果した修行地であることがうかがわれる。  その後、桓武天皇の命を受けた阿波国司藤原朝臣文山が伽藍整備を行い、以来歴代藩主の手厚い保護を受け、虚空蔵求聞持根法本道場・虚空蔵十三詣り等、真言宗の寺院の中でも、ひときわ輝かしい法灯を維持してきた。  太龍寺の寺領は、霊山の名にふさわしく、樹齢数百年を算する巨杉・大桧に覆われ、本堂・大師堂・多宝塔・求聞持堂・鐘楼門・本坊・護摩堂・六角経蔵等が点在し、四国霊場の中でも群を抜く壮大なスケールを誇る。

 ケーブルカーを降りると、本堂を仰ぎ見る形で石段が目の前に迫る。車で八十八ヵ所をめぐることが出来るが、車を降りるとそこが本堂、という寺ばかりではない。このように石段や坂道を登って辿り着く寺もある。車で回るにしても5年後はムリかもしれない。

■ぼけ封じ
人気のない本堂でジャラジャラと鈴を鳴らし、賽銭をチャリンと投げ入れる。鈴を鳴らすのは、神様とか仏様に「お参りに来ましたよ」とお知らせする意味がある。祈願して詮無いことながら、スマホとの再会を祈った。本堂内には交通安全、学業成就と並んで「ぼけ封じ」の絵馬があった。絵馬を上げてももう遅いか。

本堂から弁財天を左に見て多宝塔へ向かう。高さ18メートルの二重の塔であるが、丘の上にあるので大きく見える、1861年に阿波城主により建立されたとある。多宝塔右手の石段を下りて大師堂へ向かう。大師堂から本坊へ下る石段の途中に鐘楼門があって、綱を引くと鐘を撞くことが出来る。あとで知ったがお遍路では鐘を撞く回数は1回のみ、と決められているそうだ。時間つぶしに何度も鐘を撞いてしまった。

本坊あたりでお遍路さんをちらほら見かける。ここでお遍路さんは納経をし、人によっては写経を行う。仁王門の方から旧い遍路道を登ってきた「歩き遍路」を見た。年の頃は30半ばか、こんにちは、と挨拶を交わしただけだが、車やバスのお遍路さんと雰囲気がまるで違う。テカテカに日焼けしているし、身のこなしがきびきびしている。ベンチに座ってバッグから取り出したポリビンから喉を鳴らして水を飲む様子もサマになっている。本坊前の桜は蕾がピンクに染まっていて、2つ3つ、花がほころび始めていた。歩き遍路と花の写真を撮っておけばよかったなあ。

舎心ヶ嶽
2時間ほど太龍寺をゆっくり散策した後、ロープウェイの山頂駅へ。駅の右手に「舎心ヶ嶽まで600m」の案内板があった。遥か遠くの岩頭に大師様のブロンズ像が小さく見える。2時間に1本のバスに乗るには25分後のロープウェイに乗らなければきつい。逡巡したものの、通常1000メートルは15分で歩ける、600メートルならば上り道でも10分ちょっと、そして下ってくる時間を5分として、20分以内には駅まで戻れるはず、と舎心ヶ嶽へと向かった。

右にミニ八十八ヵ所の石仏が並ぶ石だらけの道を登る。時間がないから速歩だ。やがて石仏が途切れ、舗装道になったがその道を見て絶句、30度以上の急勾配だ。「ここからはお大師様がサポートして下さいます」という札があったが信用できない。ここで引き返すのも癪だ。ゼーゼー、ハーハー、2年前に入れた冠動脈のステントが外れるのではないかと思うほど鼓動が激しくなる。7キロのリュックが重い。汗でシャツが体に張り付く。息も絶え絶えで「求聞持修行大師像」のブロンズ像にたどりつく。ゆっくりしていられない。すぐ引き返す。山道は登りより降りが危ない。道は杉の落ち葉に覆われていて歩きにくい。滑って転んだら後頭部を石に打ち付けて硬膜下出血、白装束でもないのに倒れ遍路となる。

駅にゴールインしたのは発車数分前、事前調査をしなかったために、静、動、落差の激しい参拝となった。

日本で気づいたこと

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御厨人窟の前、烏帽子岩

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最御崎寺、仁王門より本堂を臨む

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最御崎寺、仁王様

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最御崎寺、ミニ八十八ヵ所

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牟岐線鯖瀬駅 無人駅です。

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鯖瀬駅、時刻表、朝7時から11時までは1本のみ

 

 

日本で気づいたこと

■超高度肥満を見かけない
10年以上、海外で暮らしてきた。この度、生活者として日本に暮らしてみて、へえ、そうなんだ、と改めて気づいたことがいくつかある。清潔であるとか、小学生が一人で電車通学しているとか、エスカレータで片側をあけるとかは訪日外国人が等しく驚いていることだ。
外人の感想と重なる部分もあるけれど、東京生活も1年を閲したことではあるし、自分の気づきをいくつか書いてみたい。

まず気づきの第一、デブがいない。タイでも最近は米国人のような超肥満体型の人が増えている。ビヤ樽に手足が生えていてゆらゆらと歩く。チェンライではこの体型の子供が歩いている。日本では見たことがない。WHOではBMI値35以上を高度肥満という。BMI値とは体重を身長の2乗で割った数だ。身長1.7mならば100キロ以上、1.6mの人なら90キロ以上の体重となる。

WHOの世界成人肥満率ランキングによると、1位ナウル、2位クック諸島、3位トンガ、4位サモア、5位パラオ、となっていて軒並み5割以上の国民が巨漢である。
米国は24位で成人の32%が高度肥満、タイは135位で8.5%、日本は世界189ヵ国中166位で4.5%となっている。日本ではビヤ樽に手足の超高度肥満の人は殆ど見かけない。欧米人も日本で暮らすと劇的に体重が減るらしい。やはり食生活のせいだろうか。

■ちょっとうるさい
夕方5時になると「夕焼け小焼け」の音楽と共に早く家に帰りましょう、という放送が流れてくる。昼頃にも感染症に気を付けましょう、という放送がどこからともなく流れてくる。毎日だと耳障りだ。小型パトカーが「オレオレ詐欺に注意しましょう」と詐欺手口の説明、警察への通報を促す放送をしながら通っていく。

またバスに乗ると「曲がりますからご注意ください」、「発車します、お近くの手すりにおつかまり下さい」と言われる。バスは揺れるものと分かって乗っているんだから、いちいち言わないでもいいよ、と思う。映画館でも幕間に「マスクを鼻の上までかけて、飲み物は素早く飲んですぐマスクで口を覆って下さい」とこまごました注意放送がある。スクリーンでは「大切な人を守るために、日本を守るために…感染症対策を」の呼びかけがある。くどく注意するのもあとで「ちゃんと言ってくれなかった」と文句を言う人がいるからだろうか。子供じゃないのよ、と言いたくなる。

■美人が多くなった。
ここ10年で日本女性は一段と美しくなったのではないか。マスクをしていても眉毛と目が魅力的だ。チェンライではTシャツ、短パン、ゴム草履の女性が大半、庶民は化粧などしない。パーマをかけている女性は限られている。弟の嫁さんが女中さんに口紅をプレゼントしてくれたが彼女たちが使った形跡はなかった。それに引き換え、東京は車内であっても街角であっても、女性はお化粧がうまいし、髪形も様々、服装のセンスはいいし、色合いもデザインも様々で服装を見ているだけでも楽しい。チェンライのような田舎では女性はモノトーンでがさつ、東京の女性はカラフルで淑やかで美しい。年配の女性でもそれなりの魅力を自ら演出している。これも文化の違いなのだろう。

自分の家から最寄り駅への道は私立の薬科大学の通学路となっている。今も昔も薬科大学は女性の比率が高い。自分が学生の頃、すれ違う薬大生は「その顔ではとても嫁にいけないから、せめて手に職でもつけておくれ」と親に言われて薬学部にきました、という感じの子ばかりだった。ところが、最近、スーパーへの行き帰りにすれ違う薬大生を見ると、可愛らしい娘さんばかり、背が高くなっていてスタイルもいい。着ている服の色合い、センスもいい。談笑しながら歩く姿は聖心、東女ほどではないにしても明るく爽やかなお嬢さんたちばかりだ。チビ、デブ、メガネ、下を見て独り黙々と歩いているというイメージがすっかり変わってしまった。

加齢により、我がストライクゾーン広がったのだろうか。老人が若さを眩しく、また羨む気持ちがあるのかもしれないが、それだけではなさそうだ
考えてみるとここ10年、女中のブアさんの顔(その前は主としてカミさんの顔を)を眺めて暮らしてきた。それで久しぶりにお化粧した娘さんを見ると誰でも美女に見える。無意識下で新旧の風貌の比較を行っているのかもしれない。そうであれば、どの女性を見ても美しく見えるのはブアさんのお陰とも言える。人生、すべてコインの裏表、いいことが悪いことで悪いことがよかったりする。女性観察の楽しみをもたらしてくれたブアさんに感謝しなければ、と思う。

弘法大師の霊跡(4)

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大砂海水浴場

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鯖瀬駅

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中央に八坂寺が見える

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すれちがうケーブルカー

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ロープウェイ内、ガイドのお姉さん

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那賀川



弘法大師の霊跡(4)

 

■阿波海南
室戸の御厨人窟最御崎寺を参拝した後、阿波海南に宿を取った。特に理由はない。次の訪問地、太龍寺への中継地として適当に選んだに過ぎない。宿は大砂という海水浴場に面した民宿だった。時節柄、泊り客は少なく、朝夕の食事は一人でとった。海水浴シーズン以外、泊り客はいないのだろう。夕食には刺身、天ぷら、その他食べきれないほどの料理が並んだ。

失くしたスマホ、成田空港警察にも問い合わせてみたが届け出はないとのこと。婦警さんが、紛失届を出しますか、と訊ねてくれたがお礼を言って断った。形あるものは滅ぶ、生者必滅、会者定離、そろそろ別れの時が来ていたのだ、新しいスマホを購入せよとの仏様のお導きなのかもしれない。

朝、フルーツばかりでなくケーキ、珈琲までついた豪華な食事を終えた後、車で牟岐線(むぎせん)の鯖瀬駅まで送ってもらった。無人駅のホームから海と山に張り付くような狭い土地に建つ人家、寺が見えた。寺は番外霊場四番八坂寺である。鯖大師本坊としても知られている。

その昔、弘法大師が馬子に積み荷の塩鯖を施して欲しいと頼んだところ、馬子はそれを断った。すると馬が急に苦しみだした。驚いた馬子が非礼をわびて鯖を差し出すと、大師は馬に水を与え、馬は回復。それどころか、海に放った塩鯖も蘇生して元気に泳ぎだしたという。馬子は大師の弟子となり、やがて、大師と出会ったこの地に庵を結び古今来世まで人々の救いの霊場とした。それが今の鯖大師本坊である。鯖大師のHPによると鯖を三年食べない「鯖断ち」により、子宝成就、病気平癒はじめ、すべての願いごとがかなえられるとのこと。

単線の線路や風景を撮っているうちに8時25分の電車が来た。この電車を逃すと次の電車到着は12時15分になる。

■大龍寺ロープウェイ
鯖瀬から1時間ほどで太龍寺の最寄り駅、桑野に着いた。ここから太龍寺の近くまでバスが出ている。だが駅の近くにバス停はないし、場所を聞こうにも人影が見当たらない。駅前にタクシーの店があった。中に入って声をかけると奥から年配の運転手が出てきた。大龍寺まで、というと相好を崩して喜んだ。以前は台湾人中心に客が多かったが、昨年来、開店休業だという。自分が今年初めての客らしい。太龍寺へ登るロープウェイができる前は麓から山上へピストン輸送、あの頃はよかったなあ、などと車内で話すうちに、四国霊場二十一番札所大龍寺への登り口、道の駅「鷲の里」に到着した。この駅にはレストラン、土産物店のほか、ホテルや親水公園などが整備されているが、駐車場はガラガラだった。

ここから20分間隔で全長2775メートル、高低差500メートルを上り下りするロープウェイが出ている。往復2600円。20分おきの運転だ。
太龍寺はお遍路を苦しめる阿波三大難所の一つ。その3つとは、一に焼山、二にお鶴、三に大龍、つまり十二番札所焼山寺、二十番札所鶴林寺、そして大龍寺を指すがどうして難所というかというと高い山の上にあるからだ。5年後どころか今でも大龍寺までの遍路道を登るのはムリ。ロープウェイがあって有難い。

■貸し切り
101人乗りのケーブルカーに乗り込んだ客は自分一人、ガイドの女性が、今日はおひとりですのでマイクは使いません、と言って、荷物が少ないようですがお遍路さんですか、などと聞いてくる。遥か下に徳島県最長の川、那賀川がみえる。この辺り、夏はカヌーで賑わうそうだが、季節柄、穏やかに水が流れている。流れが急な瀬は白い波が立っている。タイの川はどこもラテライトのせいで水が赤茶色に濁っているが、日本の川は透き通るようにきれいだ。日本の川の清冽さに心が和む。

川を越えると剣山山系の山並みが遠望できる。本当はもっとよく見えるのですが、黄砂のせいで、と申し訳なさそうに言う。悪いものは全部あの国からですね、お姉さんが謝ることないですよ。本来は紀伊水道も見えるらしい。眼下には森林が広がる。寺領であったため、開発の手が及ばなかった。山の斜面を走る鹿や猪を望見できることもあるとか。昔は日本狼が生息していたそうだが、絶滅した今はブロンズ製の5匹の狼が右下に見える。左には舎心ヶ嶽に座す若き日の大師様の像が遠望できる。10分の旅ではあるが個人ガイド付き、片道1300円は高くはない。

どの位、皆さん山上に滞在するのですかと問うと、お遍路さんは30分くらい、写真を撮る方で2時間くらいでしょうか、という。太龍寺は「西の高野」と呼ばれているので境内は広大ではないかと思っていたがそれほどでもないようだ。(続く)

弘法大師の霊跡(3)

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仮設通路の先が御厨人窟

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向かって左が御厨人窟、右が神明窟

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御厨人窟から道路を隔てて烏帽子岩がみえる

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四国第二十四番霊場最御崎寺

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鐘石、石の上に小石が用意されている

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昔からの遍路道



弘法大師の霊跡(3)

御厨人窟(みくろど)
弘法大師は四国八十八ヵ所霊場のほかにも数多くの足跡を残しており、それらは番外霊場として人々の信仰を集めてきた。番外霊場の数は200ともいわれるが、御厨人窟もその一つである。案内してくれたAさんは何年かかけて四国八十八ヵ所をすべて巡り、高野山にもお礼参りをしたという。でも御厨人窟は車で通りすぎることはあってもお参りするのは初めてとのこと。

御厨人窟と神明窟は国道55号沿いの室戸岬東側に位置する隆起海蝕洞である。洞窟前の駐車スペースとなっている場所は波食台であり洞窟上部の崖は海食崖である。修行場であった御厨人窟の向かって右側に大師さまが生活されたと言われる神明窟がある。昔は窟のすぐ前が海になっていたという。広い駐車場には先客が1台のみ。
以前はお遍路さんたちが洞窟内に入り、波音を聞き、空と海の大自然のエネルギーを体感したという、しかし崖からの落石があって、2012年に洞窟内立ち入り禁止となっていた。2019年には鉄骨、金属網で覆われた仮設通路ができ、入洞が再開されたが、我々が行った時は仮設通路の前に不細工なバリケードが築かれていて、洞窟に近づくこともできなかった。

御厨人窟紹介ネットは洞窟内から海を臨むショットが多い。洞窟の中で聞こえる豪快な波の音は「室戸岬御厨人窟の波音」として環境省の残したい「日本の音風景100選」に選定されている。大師様とおなじ場所に立ってパワーを頂こうと思っていたのにバリケードと仮設通路のせいで有難みは9割型減じていた。道路を隔てて奇岩、烏帽子岩がある。海岸沿いの遊歩道を通ると巨大な中岡慎太郎像の前に出た。ここは「恋人の聖地」と案内板にあったが、その理由はわからないし、興味もない。

最御崎寺(ほつみさきじ)
御厨人窟から3キロほどにある四国第二十四番霊場最御崎寺へ向かう。駐車場からなだらかな坂、もしくは石段を登る。この寺に隣接して室戸岬灯台がある。標高は164mという。二十三番霊場薬王寺からは平坦な道ながら山と海に挟まれた一本道を延々と80キロ近く進む。歩き遍路にとっては難所であり、遍路道の傍らには古い遍路墓がいくつもあるという。

現在は四国八十八ヵ所霊場を10泊11日で回るバス旅行がある。費用は20万前後、また、県ごとに霊場を分割して回るコースもある。タクシーを借り上げ、1週間で全霊場を回る「通し打ち」を敢行した友人がいる。1日平均10ヵ所以上、参拝している間に運転手さんが納経帳に朱印を押してもらうという分業体制の強行軍、結願となった時、タクシーの運転手さんが、ああ、新記録達成だ、と叫んだというから凄い。それで、どこのお寺がよかった?と聞いたが、全く覚えていないという。でも大師様のご加護のお陰か、現在もゴルフ中心の健康な日々を送っている。

さて、最御崎寺弘法大師が大同2年(807年)に嵯峨天皇の勅願によって本尊の虚空蔵菩薩像を刻み、開創された由緒ある寺だ。もとは奥の院・四十寺がある四十寺山にあったが、寛徳年間(1044年~1055年)に現在地に移ったといわれている。厳格な修行の聖地で明治5年まで女人禁制だった。仁王門をくぐると風格ある鐘楼堂が右手にみえる。この鐘楼堂は土佐藩2代目藩主山内忠義が寄進したもので、慶安元年(1648年)に建立された。本堂にはお遍路さんが数人参拝していた。自分も硬貨を賽銭箱に投げ入れ、どうかスマホが見つかりますように、とお祈りをした。Aさん宅から成田の第3ターミナルの遺失物係に再度問い合わせたが、スマホは届いていないという。ジェットスターの連絡先を教えてくれたが何度掛けても通じない。機内でスマホに触った覚えはない。これはダメか。

弘法大師7不思議
鐘楼堂の裏手にはミニ四国霊場があり小さな石仏が並んでいる。また鐘楼堂の手前左側には弘法大師の7不思議の一つ、「鐘石」がある。小石で叩くと金のような音を発し、その音は冥途まで届くという。叩くとキーンという金属音が聞こえた。

7不思議の一つ、「食わず芋」も境内にある。弘法大師が空腹に耐えかねて川でイモを洗っていた老婆にイモをひとつ所望したところ、老婆は『このイモは食べられない』と嘘を言った。すると、イモは本当に煮ても焼いても食べられなくなり、「クワズイモ」と呼ばれるようになった。大師様はあちこちで水や食物を所望し、もらえないと水を飲めなくしたり、クワズXXに変化させてしまう。このクワズXXは30種ほどあるらしい。
この日は室戸から甲浦を経て阿波海南までバスで行くつもりだったが、Aさんの車で阿波海南の民宿まで送って頂いた。(続く)

 

孤独と自由

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成田空港第3ターミナル

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空港のマッサージ器、タイなら2時間で千円だが・・・

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高松駅の喫茶店

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JRの観光ポスター、愛媛は京都に敵わないと言っているような…

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いずれも2番煎じであることを認めている

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四国のオリジナルをアピールできないものか。


孤独と自由

 

■黙考
学生とか単身赴任で独り暮らしの人は多いと思う。でも週日は学友や同僚、立ち寄ったお店の人など、人と話す機会はあるはずだ。自分は独居老人である。同居人はいないし、行くところはないから一日中、言葉を発しない日がある。それが数日続くこともある。タイで暮らしていた頃、兄が帰国すれば家に一人だったが、女中さんは来るし、コートに出れば仲間がいるし、無言で過ごしたことはない。だから今、生まれて初めてベネディクト派の修道士のごとく黙考の日々を送っている。

朝、目覚めて、布団の中でグズグズと考える。日中は枕許の本をかわるがわる手にして、疲れたら、ぼんやりと天井を見ている。「寝つつ読む本の重さにつかれたる手を休めては、物を思へり」だ。誰にも邪魔されない、本を置いてウトウトとまどろむこともある。そのまま涅槃の世界に落ち込んでいける。これこそ極楽往生だ。でも「タイに戻れなくなった老人が孤独死、保健所は感染症との関連を調べている」と新聞に出ても困る。まあちょっと休んでから食事の支度でもするか。

■料理でボケ防止
タイの地方都市で夜を過ごした。田舎といっても一応、県庁所在地であったから和食店も探せばあるはず、と街を歩いた。チェーン店のラーメン屋があった。中をのぞくと、こちらに背を向けた老人が、丁度ラーメンの丼を持ち上げてスープを啜るところだった。ヨレヨレのTシャツ、短パン、曲がった背骨、テーブルにはビール瓶が見える。タイ人は決して皿や丼を持ち上げない。間違いなく日本人だ。背中に侘しさが張り付いている。肩の上に貧乏神が乗っていたかもしれない。これは数年後の自分の姿だ。そう思うと中に入れなくなった。

単独旅行では仕方ないが、一人の外食は好きではない。タイで見たラーメン老人の姿が重なって、哀しい気分になる。自分で作るほうが気楽である。美味しければ嬉しいし、いまいちの味であれば反省材料となる。料理は上陸作戦と同じだ。まず食材の準備、量にあった鍋を用意、初めに野菜を炒める、調味料の逐次投入、皿への盛り付けまで一連の流れに沿った作業が必要だ。結構、ボケ防止になるのではと考えている。クックパッドのアドバイス通りにやればそれなりの味に仕上がる。作戦要領も大切ということか。

タイではまず食材が揃わない。あってもいまいち、大根は太さ5センチ程度で半分はスが入っていてガサガサ、キュウリも味が違う。援護の艦砲射撃も戦車もない上陸作戦みたいなものだ。東京はスーパーでさえ、ちゃんとした食材が買える。品質にばらつきがないし、品切れも殆ど無い。日本の食材はクールといいたくなる。

自炊の問題点は、何故か作り過ぎてしまうことである。おでんに里芋を一袋、500グラム入れてしまう。蒟蒻は2枚、竹輪は、大根は、と次々に入れていく。練り物は煮ると体積が増える。ツミレも膨れる。そして大鍋の半分くらいと思っていた材料は蓋を押し上げるほどになる。どうやって食べるきるんだよ。1週間はおでんを食べ続ける。

■黙考のお陰で
700ページ近い小説(弧愁サウダーデ)を一気に読んだ。午後3時から読み始めて読み終えたのは11時過ぎだった。夜食は簡単にして読書に没頭、こんな経験は学生の時以来か。ここ十数年の海外暮しで読書の習慣は消え失せていた。その反動で今は常に数冊の本が枕頭にある。本はこれまで知らなかったことを教えてくれる。へえ、そうなんだ、なるほど。本を読むと自分が何も知らないことに気づく。もっと知りたくて図書館に本を予約する。音楽、絵画、歴史にも殆ど無知だ。世の中には膨大な量の芸術、書籍、学問がある。自分が触れることが出来るものはゴビ砂漠の砂粒一つにも満たない。多くの人が同じ想いを持って老い、病を得て、この世から消えていく。

それほどお金のかからない過ごし方だったから、読書に費やした時間は多かったと思う。でも読書によって人格が陶冶されたわけでも教養が身についたわけでもない。なぜかというと何を読んだか記憶に残っていないからだ。時間つぶしだったのだから仕方がない。

小説や映画は作り事に過ぎない。でも佳作であれば自分も同じではないかと登場人物に感情移入していく。それが殺人犯であっても卑怯な男であっても、だ。ネットでは情報は取れるが、読書や映画のように深く人生を想うには至らない。でも情報も感動も同じようにその場限りで忘れていって、世の中わからないことばかりだなあ、とため息をつく。

黙考に沈殿する独り暮らしは自分をいくらか謙虚にするかもしれない。

弘法大師の霊跡(2)

 

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高松―高知の高速バス、座席を隔てるカーテン付き

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高知駅前、幕末の3傑

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土讃線、単線です

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高知、物部川飛鳥時代物部氏ゆかりの川

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先輩宅で

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庭で




弘法大師の霊跡(2)

 

スマホを失くした
成田発、高松行の機内はほぼ満席、3月の中旬だから卒業旅行や春分の里帰りが多いのだろうか。GoToの再開はなかったけれども、自粛疲れで人の移動が始まったのだろうか。

空港から高松駅まで連絡バスに乗った。バスの車内で肩下げバッグに入れてあったスマホがないことに気づいた。最後に取り出したのは成田空港の第3ターミナルだ。空港の無料WiFiに接続しようと思ったのだが、繋がらなかった。ラオスの片田舎のGHでも繋がるのにどうして国際空港で、とバッグにしまったつもりであったが、待合室のシートに置き忘れたのだろうか。
ホテルから成田空港第3ターミナル、遺失物係に連絡してみた。スマホの特徴やメーカーを聞かれた。韓国製のギャラクシーである。まだ届いていない、1日経って出てくることがあるからまた明日、連絡ください、でこの日は終わりになった。

なんで韓国製のスマホ使っているの?日頃の言動からしておかしいんじゃない、と度々揶揄われていた。携帯、スマホには全く縁がなく、2006年にウズベクでJICAから配布された携帯が我が情報機器事始めだった。タイでもガラケーの携帯を使っていた。デンマークに住むブアさんの友達が不要とスマホを送ってきた。そのスマホをブアさんがくれた。無料取得であるし、全部は使いこなせないけれどガラケーに比べれば機能が充実している。韓国製ということを別にすれば満足して使っていた。でも、もし紛失してしまったなら、これが買換え時かもしれない。言い訳をしなくて済む。

■前回訪問時は
高松から先輩宅のある土佐山田まで距離は144キロだが、JRの予讃線土讃線を乗り継ぐと5時間半かかる。特急利用で2時間半、でも電車代が成田―高松間の航空運賃とさほど変わらない。時間的には特急と同じで料金の安い高速バス(黒潮エキスプレス)を利用することにした。2時間に1本のバスであるが、乗客は12,3人、やはり旅行はまだ自粛か。

土佐山田駅で先輩、Aさんと5年ぶりに再会、80歳を越えられたというがお元気そうだ。先輩とはいえ会社も学校も違う。業界団体の委員会で自分を指導してくれた人だ。退職後は郷里に戻って農業、山林管理をしている。鹿、猪、猿が出没するところなので、農業は野生動物のエサづくりといった趣きがある。長年の会社勤めで培った事務能力を買われ、地域団体で管理業務のボランティアをされている。年齢を重ねても周りから必要とされる人にはそれなりの風格が漂う。

5年前、山下奉文陸軍大将の生誕地を一緒に訪ねた。大東亜戦争マレー半島シンガポール攻略の大戦果を挙げた軍人であるが、畦道の傍らにただ一つの石碑があるだけだった。
シンガポール陥落は英国軍のアメリカ独立戦争におけるヨークタウンの戦い以来の英国軍史上最大規模の敗北だった。「英国軍の歴史上最悪の惨事であり、最大の降伏」とチャーチル英国首相は自著に残している。
当時、自由フランス軍の指導者であったシャルル・ド・ゴールは、「シンガポールの陥落は、白人植民地主義の長い歴史の終わりを意味する」と述べた。
山下将軍は英国植民地支配の失墜をもたらし、アジアの人々に独立の勇気を与えた。その意味でもっと称揚されるべき人だと自分は考えている。

■Aさんにお世話になる
5年前は友人と書いているが、今回は先輩としたのは、始めてAさんの年齢を知ったからである。謙虚な人柄で、敬語で接して下さるものだから勝手に同年代と思っていた。物部川をはるか下に見下ろす旧家で、Aさんと歓談、独り暮らしで会話をする機会がなかったせいかいくらか饒舌になってしまい、ご迷惑をかけたのではないかと悔やまれる。

翌日、Aさんの車で、室戸岬へ向かった。高知県は横に長い県で、土佐山田から室戸まで80キロくらいあるのではないか。高齢のAさんに代わって自分が運転しなければならないのであるが、我が国際免許は2月に切れている。
道路はAさんも驚くくらい空いていた。四国は車社会ではあるが、まだ四国全体をぐるりと回る高速道路はない。片側1車線の国道を安全運転で走行する。やがて車は55号線に入り、室戸の御厨人窟(みくろど)の案内板が見えてきた。道路沿いにあるらしい。

御厨人窟室戸岬東側に位置する隆起海蝕洞で、平安時代初期に弘法大師が修行をしたといわれる。当時青年だった弘法大師はこの地で開眼し、洞窟の中から見えた風景が“空と海”だったので「空海」の法名を得たと言われている。大師巡り屈指のパワースポットだ。(続く)