チェンライの市場から

「市場に並べられた商品からその国の生活がわかる」と言われます。当ブログを通じてチェンライに暮らす人々の生活を知って頂きたいと思います。 チェンライに来たのは2009年から、介護ロングステイは2018年8月母の死去で終わりとなり、一人で新しい生活を始めました。

金門島3

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古寧頭戦史館正面

 

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古寧頭戦役で活躍した米国製戦車

 

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正面のレリーフ

 

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館内の絵画

 

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人民解放軍の上陸地点を正確に予想していた

 

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戦史館正面、右手に戦車、戦闘場面のレリーフが見える

 

 

金門島3

塹壕戦法
昭和24年8月18日、根本中将ら一行は、福建に向けて出発する。根本中将は、国民党軍の軍服を与えられ、蒋介石から贈られたChina名の「林保源」を名乗りました。厦門(アモイ)に到着した根本中将は、同地の地形等を調べ、即座に「この島は守れない」と判断、「厦門は放棄。金門島を死守する」と決定します。

基本方針が固まると、さらに根本中将は作戦を深化させます。
共産軍は海軍を持っていません。彼らが海峡を渡るためには、近辺の漁村からジャンク船と呼ばれる小型の木造帆船をかき集めることになるだろう。
ジャンク船なら、海で迎え討つこともできるが、それでは敵の損害は少なく、勢いに乗った共産軍を押しとどめることはできない。
ならば敵の大兵力をまず上陸させ、その上で一気に殲滅して国民党軍の圧倒的強さを見せつけるしかない・・・。

根本中将は大東亜戦争時に日本陸軍が得意とした塹壕戦法を採用します。海岸や岩陰に穴を掘り、敵を上陸させ、陸上に誘い込んで殲滅する。まさに硫黄島や沖縄で米軍に対して大打撃を与えた戦法です。

根本中将は、共産党軍の上陸地を想定し、塹壕陣地の構築や、敵船を焼き払うための油の保管場所など、日夜島内を巡りながら、細かな指示を与えて回りました。

厦門から国民党軍を駆逐し、勢いに乗った共産軍は、「こんな小島をとるには何の造作もない、大兵力を送り込んで残党をひねり潰すだけのことだ」と豪語します。

■共産軍上陸
10月24日の夜、いよいよ金門島への上陸を始めました。この日、金門島の海岸は、上陸した共産軍2万の兵士であふれかえったのです。

彼らが上陸する間、島からは一発の砲撃も銃撃もありません。共産軍は悠々と全員が島に上陸し、露営の構築に取りかかりました。
そのときです。
突然彼らが乗船してきた海上のジャンク船から火の手があがりました。

火の手はあっという間に広がり、油を注がれた木造の小船は、見るも無惨に焼けてしまったのです。
そして夜が明ける。

辺りが明るくなりかけたころ、突然島の中から砲撃音が鳴り響きました。
そしていままで何もないと思っていたところから、突然国民党軍の戦車21両が現れ、37ミリ砲を撃ちまくりながら、海岸にひとかたまりになっている2万の共産党軍に襲いかかったのです。
船は既にありません。共産軍は、国民党軍の戦車隊が出てきた方角とは反対側、つまり金門島の西北端にある古寧頭村に向かって逃げ落ちました。

■国民党軍を制止
これまでずっと敗北を続けてきた国民党軍です。ほとんど初めてと言ってもよいこの快勝に、兵士たちは血気にはやりました。そしてそのまま一気に古寧頭村に攻め込もうとしました。

ところが根本中将は、これに待ったをかけます。
「このままでは、巻き添えで一般の村民が大勢死ぬ、村人たちが大勢殺されたら、今後、金門島を国民党軍の本拠として抵抗を続けていくことが難しくなる」というのです。

そして、古寧頭村の北方海岸にいる戦車隊を後退させ、南側から猛攻をかける。つまり敵に逃げ道を作って攻めかかり、北方海岸方面に敵を後退させ、そこを砲艇海上から砲撃させ、戦車隊と挟み撃ちにして、敵を包囲殲滅するという作戦を、湯将軍に進言します。

10月26日午後3時、根本中将の作戦に基づく南側からの猛攻が始まりました。
敵は予想通り、村を捨て、北側の海岸に向かって後退しました。
そこにはあらかじめ、砲艇が待機しています。

砲艇が火を吹く。反対側から戦車隊が迫る。共産党軍に逃げ場はありません。
砂浜は阿鼻叫喚の地獄と化し、午後10時、共産軍の生存者は武器を捨てて全員降伏したのです。

■一方的大勝利
この戦闘で共産軍の死者は1万4千、捕虜6千となりました。
国民党軍は、怪我人を含めて3千余名の損傷です。
戦いは、あまりにも一方的な国民党側の大勝利に終わったのです。

わずか二昼夜の戦いで、共産軍の主力が壊滅したというウワサは、あっという間に広がります。
これまで敗退続きだった国民党軍がいきなり金門島で大勝利したのは、「戦神」と呼ばれる日本人の戦闘顧問がついたからだとも・・・。
日本の戦神が、国民党軍のバックについた。それは共産軍からみれば死神以上に恐ろしいことです。

共産軍の進撃は完全に止まりました。

10月30日、湯将軍ら一行は、台北に凱旋する。蒋介石は、このとき根本中将の手を握って「ありがとう」とくり返したといいます。
けれど根本中将は、「China撤退の際、蒋介石総統にはたいへんな恩を受けた。自分はそのご恩をお返ししただけです」と静かに語りました。

そして結局根本中将は、この功績に対する報償を一銭も受け取らず、また、金門島での戦いに際しての根本中将の存在と活躍については、公式記録からは全て削除してくれるようにとくれぐれも頼み、台湾を後にしました。(続く)

ねずさんの独り言、「金門島の戦い」全文はこちらから
http://nezu3344.com/blog-entry-1713.html

 

金門島2

 

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チェンライ花博から

 

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チェンライ花博から 菊

 

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チェンライ花博から ダリアも種類が増えた

 

 

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チェンライ花博から

 

 

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チェンライ花博から

 

 

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チェンライ花博から チューリップ

 

金門島2

■恩義に報いるとき
昭和24年、東京多摩郡の根本元陸軍中将の自宅にひとりの台湾人青年が訪ねてきました。彼は李鉎源と名乗り、台湾なまりの日本語で「閣下、私は傳作義将軍の依頼によってまかり越しました」と語りました。

傳作義将軍は、根本中将が在留邦人や部下将兵の帰還の業務に当たっていた時に世話になった恩人です。
そのころ、China本土を追われた蒋介石の国民党は、台湾に逃れ、そこを国民党政権の拠点とし、福建省での共産党軍との戦いを繰り広げていましたが、敗退につぐ敗退です。
このままでは蒋介石の命が奪われ、台湾が共産党支配下に落ちるのも目前という状勢にあったのです。

「なんとか閣下のお力を貸していただきたい」という李鉎源の申し出に、根本中将は、いまこそ蒋介石が復員に力を貸してくれた恩義に報いるときだと、確信したといいます。

ある日、根本中将は、釣り竿を手にすると、普段着姿のまま家族に「釣りに行って来る」といい残して家を出ました。
そしてそのまま、台湾に渡航するための工作活動にはいったのです。

■密航
さて台湾を行きを決意した根本中将は、まず戦前の第七代台湾総督だった明石元二郎の息子の明石元長に会っています。
明石元長は台湾で育ち、戦後は日本にいて台湾からの留学生や青年を援助していました。

台湾に国民党がやってきて以降、彼ら国民党が、元からいる台湾人(旧日本人)を何かと差別し、いさかいが耐えないことは明石元長も承知しています。
しかし蒋介石率いる国民党が、毛沢東の共産軍に負ければ、台湾は共産党政権に飲み込まれ、台湾の同胞たちはもっと悲惨な眼に遭う。
明石は、なんとかして軍事面で蒋介石を支援しなければならないと考えていました。
そのためには、戦いの神様と呼ばれた根本中将を台湾に送り込むしかない。

けれど終戦直後のことです。
明石も無一文なのです。
明石は、資金提供者を求めて回り、ようやく小さな釣り船を手配しました。
根本中将は、その釣り船に乗って、昭和24年6月26日、延岡の港から台湾に向かって出港します。

■台湾で逮捕さる
根本中将を乗せた釣り舟は、普通なら琉球諸島を点々と伝いながら台湾に向かうところ、GHQに見つからないようにと、延岡から海を最短距離で一直線に、台湾を目指しました。
そして出港から14日をかけて、ようやく台湾北端の基隆に到着したときは、船はボロボロ、乗っていた根本中将以下全員は、まるで浮浪者姿です。
一行は全員、その場で密航者として逮捕されてしまいます。
根本中将は牢獄の中で、通訳を介して「自分は国民党軍を助けに来た日本の軍人である」と何度も主張しました。
けれど看守達は、「何を寝ぼけたことをいっているのか」とまるで相手にしませんでした。

それでも二週間もすると、どうやら基隆に、台湾を助けにきた日本人がいるらしいというウワサが広がります。
そのウワサを聞いたのが、国民党軍幹部の鈕先銘(にゅうせんめい)中将でした。

鈕中将は、根本中将が北China方面軍司令官だった頃に交流があった人物です。
この話を聞いたとき、鈕中将は反射的に椅子から立ち上がったそうです。
根本中将の人格と信念を知る鈕中将は、
「あの人なら、台湾に来ることもあり得る」と直感したのです。
鈕中将は車を基隆に走らせました。

鈕中将が来ると知らされた看守らは、慌てて根本中将ら一行を風呂に入れ、食事をさせました。
根本中将らは、急に看守達の態度が変わったので、「いよいよ処刑か」と覚悟を決めたそうです。

蒋介石と会見
そこへ鈕中将が現れました。
鈕中将は、根本中将の姿をひとめ見るなり、
「根本先生!」と駆け寄りました。
その手をしっかり握りました。
それまで共産党軍にさんざん蹴散らされ、辛酸を舐めてきた鈕中将にとって、戦神根本の出現が、どれほどありがたく、大きな存在であったことか。

根本中将らは鈕中将とともに、8月1日に台北に移動しています。
そこで国民党軍の司令長官である湯恩伯(とうおんぱく)将軍の歓待を受けました。

湯恩伯将軍は、日本の陸軍士官学校を出た親日派の将軍です。
さらに根本中将が台湾に来て、湯将軍と会っているというウワサは、蒋介石総統の耳にもはいります。
蒋介石も行動は早い人です。すぐに根本中将に会見を求めました。

根本中将が応接室に入ると、蒋介石は、「好(ハオ)、好、好、老友人(古くからの信頼する友人)」と固く手を握ったそうです。

しばらく話が弾んだ後で、蒋介石は真剣な顔で根本中将に切り出しました。
「近日中に、湯恩伯将軍が福建方面に行く。差し支えなければ湯と同行して福建方面の状況を見てきて頂きたい」
即座に快諾した根本中将に、蒋介石は感激して「ありがとう、ありがとう」と繰り返しました。(続く)

金門島

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台湾本島と金門島

 

 

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 厦門(アモイ)のすぐ近く

 

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根本中将、国民党軍の軍服姿

 

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蒋介石総統

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高雄―金門島 航空券

 

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金門島行きのプロペラ機

 

金門島

■古戦場
台湾に行ったら金門島を訪ねたいと思っていた。広さは瀬戸内海の小豆島と同じくらい、約150平方キロある。中国本土・福建省の目と鼻の先(最短で2km 金門島と台湾本島は約200km)にあって、共産軍と国民党軍が激しく戦った島だ。金門島からは中国のアモイが肉眼で見える。中共がその気になれば、こんな小さな島は瞬く間に占領されるはずであるが、なぜ中国本土に近接する金門島が中国と台湾の国境になっているのか。

1949年、中国本土から国民党軍を追い落とした人民解放軍は、3日間で全島を占領できると豪語し、金門島に2万人の大軍を上陸させた。台湾本島侵攻の手始めである。しかしながら2万の共産軍は迎え撃つ国民党軍の前に僅か3日で壊滅的な打撃を受ける。世に言う「古寧頭戦役(こねいとうせんえき)」である。この戦いで蒋介石は救われ、毛沢東は、台湾を奪取し、全中国を統一する機会を失った。

実はこの戦いでは根本博中将を始めとする旧日本陸軍軍事顧問団の作戦指導によって国民党軍が勝利をおさめたことが知られている。この経緯は門田隆将氏の「この命、義に捧ぐ 台湾を救った陸軍中将根本博の奇跡」に詳しいのだが、自分はまだ読んでいない。そこでブログ、「ねずさんのひとりごと」にある「金門島の戦い/根本博中将」を参考に古寧頭の戦いを振り返ってみたい。

■蒙古の邦人を救う
終戦当時、根本中将は駐蒙軍司令官としてモンゴルにいたのです。
8月9日以降、ソ連軍があちこちで略奪や暴行強姦、殺戮を繰り広げている情報は、もちろん根本中将のもとにもたらされています。

8月15日、中将のもとにも武装解除せよとの命令が届けられました。
しかし、こちらが武装を解除したからといって、日本人居留民が無事に保護されるという確証は何もありません。

考え抜いたあげく、根本中将は、
「民間人を守るのが軍人の仕事である。その民間人保護の確たる見通しがない状態で武装解除には応じられない」とし、
「理由の如何を問わず、陣地に侵入するソ軍は断乎之を撃滅すべし。これに対する責任は一切司令官が負う」と、命令を発したのです。

8月19日、ソ連軍とChina八路軍の混成軍が、蒙古の地へなだれ込んできました。
ソ連製T型戦車を先頭に押し出し、周囲を歩兵で固め、空爆を駆使し、数万の軍勢で一気に日本軍を踏みつぶそうとしてきたのです。

激しい戦いは三日三晩続きました。
その結果ソ連軍は、敗退し、蒙古侵攻から撤収したのです。
根本中将率いる駐蒙軍が戦いに勝利した瞬間でした。

さらにこの戦いに先だち、根本中将は日本人居留民四万人のために列車を手配し、日本人民間人を全員、天津にまで逃しています。
しかも各駅には、あらかじめ軍の倉庫から軍用食や衣類をトラックで運び、避難民たちが衣食に困ることがないように入念な手配までしていました。

蒋介石との約束
モンゴルでの戦闘に勝利した根本中将は、軍装を解かずにそのまま北京に駐屯しました。
そこで根本中将は、北China方面軍司令官兼駐蒙軍司令官に就任しています。
北Chinaにいる全日本人(軍民合わせて三十五万人)の命を預かる身となったのです。

この頃Chinaでは、蒋介石率いる国民党軍が、幅を利かせるようになっていましたが、根本中将率いる北支軍は、断固として武装を解かない。
そして日本軍と国民党軍の小競り合いや、ソ連の支援を得た八路軍との戦いは、各地で無数にあるのだけれど、根本中将に率いられた日本の北支軍は、どの戦いでもChina兵を完膚なきまでに叩きのめしています。

すでに装備も不十分、弾薬も底をつき出しているはずなのです。
それでも日本軍を破れない。
次第に根本中将の存在は、国民党軍や八路軍の中で、「戦神」と呼ばれて恐れられるようになったのです。

昭和20年12月18日、蒋介石が直接北京に乗り込み、根本中将に面談を申し込みました。
断る理由はありません。
むしろ両者の争いを早急に終わらせ、国民党軍の協力を得て日本人居留民を無事、安全に日本に送り返すことの方が先決です。

はたして蒋介石は、
1 根本中将率いる北China方面軍とは争わない
2 日本人居留民の安全と、無事に日本へ帰国するための復員事業への積極的な協力をする
と約束してくれたのです。

そしてこのとき根本中将は、蒋介石の協力に感謝し、
「東亜の平和のため、そして閣下のために、私でお役に立つことがあればいつでも馳せ参じます」と約束しました。

この会見の結果、在留邦人の帰国事業は、約一年で無事全員が完了しています。
こうして北支の日本人は、ほぼ全員が無事に日本に復員することができたのです。

(続く)

 

イチローの呟き

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望遠で

 

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夜市で

 

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同じく夜市

 

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携帯でゲーム

 

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ストロボ無しで望遠、かなり暗かったが

 

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同じくストロボ無しで望遠



イチローの呟き

 

■ゴロリとベッドで
ベッドに寝転がってぼんやりとしている。次にアップする原稿は書いたし、常備菜である大根の甘酢漬けはまだある。それにしても日本の政治は、経済は、などとりとめもなく断想が頭をよぎっていく。

昔、ベッドでボーッとしているところにブアさんが掃除に入って来て、「何を考えているのですか」と聞いたことがある。揶揄ってやれ、と思って「チーウィット・アライ(人生とは何か)、クワームスーク・アライ(幸せとは何か)」と答えた。笑い出すかと思ったが、神妙な顔をしてそのまま出ていった。それからしばらく、彼女が団地の知り合いや行く先々のお寺の坊さんに、この日本人は常に人生と幸せについて考えを巡らせている、と紹介するので閉口したものだ。

もちろん人生とか高尚なことはほとんど考えないし、自分のような凡夫匹夫が考えてどうなるものでもない。でもある出来事を想起して、どうしてこうなっているのだろう、と疑問に思うことはある。何故、安倍さんは習近平主席を国賓として日本に招くのだろう。利害得失は何だろう。どうして日本のマスメディアはウィグル問題、香港民主化運動をしっかり報道しないのだろう。野党はどうしてアベノミクスの対案を出さないのだろう。そういえばイチローが、「日本の野党やメディアは酷い。桜を見る会よりももっと大事な問題があるでしょう。海外から見てると本当にバカらしい」と言っていたが、この発言に賛同しない海外在住邦人はいるのだろうか。あっという間に無為な時間が過ぎていく。

■激励の言葉
昨年12月、国民民主党原口一博国対委員長が、首相主催「桜を見る会」追及本部ヒアリングで、「もし、僕らが政権のときにいたら、真っ先に役所から去ってもらうというリストに入る」と官僚を脅迫・恫喝(どうかつ)するような発言をした。夕刊フジの取材に対し、原口氏は「パワハラとの認識ない、激励だ」と答えている。クビにしてやる、が激励ならば、すべてのパワハラは激励ということになるし、幼児虐待はしつけ、セクハラは魅力に対する賞賛になる。「今日は一段ときれいだね」とイケメンに言われれば、甘い囁き、50,60のおじんに言われればセクハラという被害者側の判断基準に従えば、原口さんの言い訳はちと苦しい。

数量政策学者の高橋洋一さんに言わせると、野党が政権に返り咲く確率は大隕石が地球に落ちる確率と変わらないから、全く脅しにはならないとのこと。だからお役人も気にしていないのかもしれない。でも「それじゃ早く政権取って俺たちを首にしてみろ」と立場上、言い返せないところが辛い、というよりも普通の社会人ならば、そんな売り言葉に買い言葉のような非常識なことは言わない。

松下政経塾
原口氏は松下政経塾の出身だ。大学を卒業して政経塾に入り、その後は佐賀県議を経て国政に出た。まっすぐ政治家への道を進んでいる。自分は、政治家は、一度は真っ当な組織で働くべきだと思っている。安倍さんは住友金属でサラリーマン生活を送っているし、麻生さんも会社経営に携わっていた。組織にいれば上司、同僚、部下、更に取引先があってそれなりの付き合い方がある。ここで上下関係のあり方、振る舞い、言葉遣いなど社会人の常識を身につける。組織の中で自分は偉いなどと公言する人には人が付いてこないし、上司もあいつは、ということになる。

国会議員、公党の役職を担う原口氏はエラいのかもしれない。でもそれは心の中に秘し、回りとうまくやらなければ、目的は達成できない。鳩山由紀夫菅直人野田佳彦、3人の民主党の首相はまともな組織での勤務経験はない。鳩山さんは大学で助教授だったが、お互いを先生、先生と呼び合う世界では真っ当な常識は身に付かない。菅さんは市民運動家、あの傲慢さでは会社勤めはムリか。野田さんも松下政経塾出身で即、政治家になった。

松下政経塾出身の政治家には前原誠司玄葉光一郎丸山穂高福山哲郎の各氏、自民党では逢沢一郎高市早苗山田宏小野寺五典等の各氏が眼に付く。松下政経塾出身者でも有能な方はおられると思う。


松下幸之助が「我が国を導く真のリーダーを育成しなければならない」という思いで松下政経塾を設立したのは1979年、以来、卒業生は300名近くになる。しかしながら「国家百年の計を創り、実践し、日本を救い、世界を救い、人々の幸福に尽くす、この方針にかなった人が一名でもいれば」という松下翁の想いを実践している政経塾出身者はどのくらいいるのだろうか。

イチローの呟きから思い付くままに書いて1800字を越えたので終わり。

親日国台湾

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寧夏夜市

 

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寧夏夜市

 

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寧夏夜市

 

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寧夏夜市

 

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寧夏夜市

 

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寧夏夜市 何処の夜市も大体同じ



親日国台湾

■台湾の夜市
タイも台湾も外食文化の国である。3度の食事を外食で済ませる人も少なくない。台湾各地の観光スポットにはたいてい「夜市」が入っている。台北では寧夏夜市、士林夜市、台南では花園夜市、高雄では六合夜市に出かけた。桃園空港から台北車站に近いホテルに到着したのは夜の8時過ぎだった。フロントで近くに食堂ないの?、と訊ねたら、この時間は開いていない、寧夏夜市に行きなさい、とのこと。台湾初日は寧夏夜市で牛肉ソバと台湾啤酒の夜食となった。四半世紀ぶりの台湾であるが「ライペイピーチヤウ(ビール下さい)」とすぐに言えたのも嬉しかった。

チェンライの夜市に比べると、台湾のそれは規模が大きい。士林市場などまっすぐ歩けないほど人出だ。概ね、片側2車線の道路を300mほど通行禁止にして道路際に屋台が並ぶ。チェンライの土曜市では道路中央にも屋台が並ぶので、歩行スペースが狭く、人出の割には混みあっている感じを受ける。台湾では道路中央が飲食スペースとなっており、椅子、テーブルが置かれていて、グループや家族連れがいくつもの皿をつつきながら食事をしている。屋台といっても大きなステーキやアイスバインをドーンと供する店もあるから、ちょこっと焼き鳥を齧りながら歩く縁日のイメージではない。夜市でも台湾人の胃袋の凄さを実感できる。これがチェンライと台湾の違いか。

■日韓に人気
台北の超有名夜市、士林夜市ばかりでなく、台南、高雄の夜市でも気が付いたのだが、歩いていると日本語が耳に入る。また、韓国人も多い。日韓関係の影響で日本に行かなくなった韓国人、並びに韓国旅行を中止した日本人が大挙、台湾に来ているのではないか。
台湾への邦人観光客は年々増加していて、2019年は初めて200万人を越えたそうだ。日本からタイに来る観光客数は年間160万人ほどだから台湾の人気がわかる。一方、台湾を訪問する韓国人はというと2018年の実績では100万人ほどで中国、日本、香港に次いで第4位であるが、10年前の6倍、ここ5年でも倍増しており、今後も増えるとみられている。

中国本土からの訪問者数はここ10年トップを占めていて、2015年には400万人を越えていたが、2018年は260万ほどに激減している。台湾、中国の政治状況によっては、さらに大陸からの訪問客が減って、日本が台湾訪問国第一位になる日が来るかもしれない。

■日台協力
一方、台湾から日本への訪問者数は2018年で476万人、単純に計算すると台湾国民の5人に1人が訪日したことになる。台湾は親日国であることは知られている。以下は日本台湾交流協会の調査から。

最も好きな国は「日本」、59%で過去最高=台湾人の対日世論調査

日本の対台湾窓口機関、日本台湾交流協会は13日、台湾人を対象にした対日意識に関する最新の世論調査の結果を公表し、最も好きな国で「日本」と回答した人は59%となった。2016年実施の前回調査より3ポイント上回り、2008年の初回調査以降で過去最高だった。

最も好きな国に日本を挙げた人の割合は、2位以下の中国(8%)、米国(4%)を大きく引き離した。年齢別にみると、日本を最も好きだとした割合は65~80歳で前回より2ポイント減り48%となったが、それ以下の年齢層ではいずれも上昇し、50%を超えた。中でも30代は70%に上り、最も高かった。

台湾が最も親しくすべき国では、日本が37%で最多となり、前回の39%からわずかに減少。一方、中国と回答した人が2番目に多く、前回の22%から31%に増え、日本との差を縮めた。

台湾に最も影響を与えている国については、中国(45%)と米国(33%)を挙げた人が多かった。ただ、中国と答えた人は前回より5ポイント下がり、日本と答えた人は前回比4ポイント増の15%となった。

日本を信頼できるかと問う項目では、50%が「信頼できる」とした。その理由に「自由・民主主義・基本的人権・法の支配といった共通の価値観」を選んだ人が68%で最も多かった。一方、信頼できるか「分からない」は40%だった。

調査は2月中旬から下旬にかけて、台湾本島に住む20~80歳の男女を対象にインターネットと電話で実施。1003件の有効回答を得た。(引用終り)

好きなんだけど頼りにならないんだよな、という台湾人のぼやきが聞こえてきそうな結果だ。米国は実質的に台湾を国と認めているし、武器供与もしている。蔡英文総統は日本に安保対話を呼び掛けている。韓国はあの体たらくだが、もし日台安保条約が締結されれば「自由で開かれたインド太平洋戦略」は中国の太平洋進出を封じる上で一層強固なものとなるだろう。一日も早い日台国交回復が望まれる。

2020年の始まり

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メーコック河畔で行われたアセアン・フラワー・フェスティバル

 

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蘭がきれい

 

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黄色い蘭

 

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ごく一般的

 

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よく見るが妖しい雰囲気の蘭

 

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移動式のATMも来ていた。日本では見たことがない。

 

 


2020年の始まり

■日本人に生まれた幸せ
明けましておめでとうございます。令和2年、2020年代最初の年、皆さまにとりましてよき年となりますようお祈り致しております。本年も宜しくご教導のほどよろしくお願い申し上げます。

今年は4日が土曜、5日が日曜だったから年末12月28日から9連休という人も多かったのではないか。とすると本日6日が仕事始めになる。初出勤で皆さんに「今年もよろしく」などと挨拶を交わしていたのは遥か昔になる。更に昔を辿れば、会社で日本酒の鏡割があって、みんなで升酒を飲んだあと上司の家に押しかけて、おせち料理をご馳走になったこともある。思えばいい時代だった。もう人生、引き算でしか物事を考えられない年代だから、未来をどう生きていくべきか、よりも、美化された過去を思い出すことに多くの時間を費やすようになった。ましてやめでたい正月の酒だ。朝酒に多少酩酊し、半世紀前の社会人生活や若かった父が懐からお年玉と書かれたポチ袋を取り出したときの仕草などをとりとめもなく思い出す。ボケが始まっているのでは、と言われれば、当たらずとも遠からずである。でもエンドルフィンが脳内に満ちて、このまま逝ってもいいと思うような幸福感に包まれるのであれば、これも一つの終活のあり方ではないか。

「我富めり新年古き米五升」(芭蕉
小学校の林間学校には米持参で参加したという団塊世代である。コメが貴重品だったという時代をわずかに記憶しているから芭蕉の嬉しさも理解できる。五升というと1月くらいは食い延ばせる量だろうか。チェンライでは搗き立ての日本米を食べている。5キロ200バーツ(約700円)だ。タイに住めば米の心配はない。我富めり、というほどではないが、何とか雨風を凌ぐ家があり、米はもとより、衣食に事欠く懸念もなく暮らせる。それも10年以上前から額に汗していない無為徒食の徒なのに、だ。そういった人間にこのような生活が待っていたとは想像もしていなかった。日本人に生まれたことを感謝せずにはいられない。
「初春にうかみし富士の美まし国」(虚子)

■季節感
日本でもクリスマス用品と正月飾りが一緒に売られていると聞いた。段々季節感が薄れているのだろうか。チェンライではメリークリスマス&ハッピーニューイヤーが普通だから新年になってもツリーが飾られている。何年か前の正月にジングルベルのメロディーが流れる和食店でおせち風料理を食べたことがある。まあケジメのない国だから、と思ってもかなり居心地の悪い思いをした。クリスマスソングが鳴り響く正月では俳句の季語はどうなるのか。

コメでも田打ち、田植え、青田、稲刈り、稲株、新米など俳句の季語には事欠かない。しかしチェンライは水さえあれば年に3度コメが収穫できる土地柄である。年末年始でも代掻き、田起こしをしている田んぼもあれば、田植えを始めている田んぼもある。いつでも田植えでは稲作全体が季語にならない。チェンライでは常時種籾を播種できるから、育ち具合がバラバラの稲田が混在することになる。こちらに移り住んだ頃はそういった統一を欠いた田んぼにイラついたこともあった。でもタイ生活も今年で12年目、そういった土地柄だから仕方ないよ、と達観できるようになった。それでも、田植え機を使用していながら、苗の条が蛇行している田んぼを見ると、整然とした芸術品のような日本の稲田が懐かしくなる。

おせち料理
年間を通して短パン、Tシャツで過ごせる締まりのない生活であるが、年の初めだけはメリハリをつけたい。正月と言ったらやはりおせち料理でしょう。こう考えるのは自分だけでないようだ。バンコクチェンマイでは日本レストランが多数あり、いくつかの店ではおせち料理の予約販売がある。12月25日締め切りで31日の引き渡しが一般的。奥さん、子供も日本人という駐在員家族が購入するのだろう。チェンライの邦人は奥さん、子供はタイ人という人が多く、需要が少ないせいかおせちの予約販売はない。

仕方がないので、おせちらしきものを自分で作る。丹波の黒豆を栽培している人がいて、黒豆がメインという年もあったがもう手に入らない。幸い今年は到来物の袋入り黒豆があった。昆布巻きもあった。尾かしら付きのタイはティラピアの塩焼きで代用、淡水魚であるが一応、いずみ鯛の和名を持つ。
出汁巻き卵は自分の得意料理。あとは餅と酒があるから、長屋の花見よりは気分が出る。酒を飲みながら、昔、母が作ってくれたおせち料理を懐かしむ。朝から飲むと何もする気にならない。「霞む日も寝正月かよ山の家」(一茶)。こうして非生産的日常は過ぎていく。

年の暮れ

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年の暮れ

■年の終わりに
令和元年もそろそろ終わる。2009年にチェンライに移り住んだから、タイで過ごす年の暮れは今年で11回目だ。介護ロングステイが終わってからもチェンライに住み続けている。そんなにチェンライの暮らしがいいのか、と問われても手放しでいいですとは言い難い。新鮮な刺身や寿司、霜降りの牛肉は食べられないし、出入国管理事務所、銀行、商店の対応もいい加減だ。逆走や蛇行運転のバイク、車にイラつくこともある。突然の断水、停電もちょくちょくある。

何年か前に帰国した折、偶々、出会ったネパールの女性から、「どうして日本に住まないのか、日本ほどいい国はないんですよ」と怒られたことがある。確かに東京の便利さ、文化、民度の高さ、清潔さ、安心、安全等々、日本ほどいい国はないし、自分だって人並みの愛国心は持っている。電車内での会話を聞くともなしに聞けば、これが日本語だから全てわかる。言葉がすべて理解できる、こんなことが素晴らしいと感じるのも、10年余を異国で過ごしているからだろう。

今年、東京の夏は暑かったとか。丁度、兄が7月から9月まで帰国していて、暑さのため、体調を崩しかけたそうだ。チェンライでも4、5月の暑季は最高気温40度を越える日があるが、陽が落ちると22=23度に下がる。東京と違って熱帯夜はないから、冷房がなくても何とか過ごせる。
日本では脳出血の発症は冬に多い。これは低温でで血圧が上昇するからと言われている。特に老人は危ない。チェンライの12月は例年になく寒く、最低気温が5度前後という日があった。それでも日中の気温は24,5度に上がるから、1日中毛布に包まっている必要はない。それに5度の厳寒期間は1週間ほど続いたものの、下旬には最低気温、14,5度、日中は30度前後になっているのでTシャツ、短パンで過ごしている。

こうしてみると、気候に関してはチェンライに軍配が上がるのではないか。日本を出る前、余命3ヶ月と言われた母が10年も生き永らえたのもチェンライの穏やかな気候あってのことではないかと思っている。

■忘年会あれこれ
12月は師走、普段は落ち着いている先生も忙しく走り回るからという。日本にいたころはジングルベルの曲が街に流れると何か追い立てられるような気分になったものだ。落語の「芝浜」ではないが、年末の勘定を取りに来る人もいないのにせわしなかったのは、忘年会という美風があったからだろう。取引先、学友、同期、課内、部内、飲める日はハレの日で、飲ませてもらえると思うとそれだけ嬉しくて率先参加していた。お前がやると料理より酒が多いといった不満の声をものともせず、宴会の幹事は進んでやっていた。今時の若者の中には忘年会の幹事に指名されたことを苦にして会社を辞めるものもいると聞く。団塊世代の自分としては誠に隔世の感に堪えない。

でも今は酒などいつでも飲めるわけだから、なにも12月に限らなくても、と忘年会自体が下火になっているのではないか。チェンライ日本人会も10年前は忘年会をやっていたが、今年はなかった。日本人会の老齢化が進んで、飲める人が少なくなってきたことも中止の理由の一つだろう。誘われれば断らないつもりであるが、酒友が生活習慣病になっているのでお誘いもない。かくいう自分も今年の5月に心臓のステント手術をして以来、酒を控え、時にはドライデーもあるという健康な日々を送るようになった。

■病気自慢
12月は寒いこともあって長い旅には出なかった。よって週6日ベースでコートに出勤、ステント手術をして以来、節酒に努め、体重を6㎏落としたので体が軽くなり、以前は追いつけなかったボールにラケットが届くようになった。但し、健康を気にしてのテニスは以前より楽しさが減じたように思う。

団塊の世代の飲み会では年金、健康、終活の話題で盛り上がるそうだ。なかでも健康は誰でも自分の一番の関心事、A1c値が7.2もあってね、私なんか9あったから医者からよく歩いてこられましたね、と感心された、とか、尿酸値を下げるにはヨーグルトが良いそうだ、いや、サプリのXXが、と盛り上がる。年を取れば皆、「飲む、打つ、買う」の生活。即ち、薬を「飲む」、注射を「打つ」、新聞、テレビで見たサプリメントを「買う」の3拍子。

そういった友人のメールに我が日常を返信すると健康自慢と受け取られかねない。兼好法師は友にするにわろき者7つあり、の一つに「やまひなく身強き人」をあげている。それでなくても少ない友人が更に減ってはいけないので、返信には気を使ってしまう。

 

というわけでブログ同様、締まりのない1年となりました。本年も皆さま方には大変お世話になりました。厚く御礼申し上げます。年末年始のお休みを頂きまして1月6日から配信を再開したいと存じます。それでは皆さまにおかれましては良きお年を迎えられますよう、北タイの片隅よりお祈り申し上げております。